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〜アスタロテside〜 ヴァラクがおかしい。 いや、おかしいのはいつものことね。語弊があったわ。いつもに輪をかけておかしい。 あの夜から、ヴァラクは何かボーッとすることが多くなった。何かあったことは明白なのだけど、決して口を開かない。 別に私が気にするようなことじゃないけれど、あれよ。リリーちゃんに何かあったら困るもの。 人が笑っていたら、自分も一緒に笑う。逆に、人が困っていたら、一緒に困ってしまう。 あの子はそういう子なのだから。 「はあ……」 「なんだアスタロテ。もしかして、例の件はまだ片付いていないのか」 音もなく現れたのは、私の半身だった。今回は私の分も事前に淹れてきてくれたらしい、両手に湯気の立つマグカップを持っている。 「ちょっとは気が利くようになったじゃない」 「ふん。どうせ行かされるんだ、最初に淹れてきたほうが効率的だ」 などと、可愛げのないことを言うアスタロト。そんなこと言って、私の分のコーヒー、ちゃんと微糖にしてあるじゃない。素直じゃないわね。 私の好みを充分に心得た一杯を、ごくごくと勢いよく飲む。 「おいおい、なんて飲み方するんだ」 一気に半分ほどに減ったマグカップの中身を見て、アスタロトが顔をしかめる。彼の美学に反する飲み方だということは分かっている。私だって同じだもの。 「いいじゃない、たまには。私だって気分がささくれ立ってるのよ」 「そういうのは安い酒でやれ。…悪酔いされても困るが」 「ふふ、そうね。悪かったわ、精魂込めた一杯を無駄にして」 「精魂は込めてない。ついでだ、ついで」 アスタロトはしかめっ面のままひらひらと手を振る。じゃあなんで咎めたのよ、なんて言えばへそを曲げるに決まっている。私はにたっと笑うだけにとどめて、マグカップを傾けた。 「で? 今度はどうしたんだ。患者が来ない時間帯とはいえ、仕事中にため息をつくとは何事だ」 「何事って。聞く気満々じゃないの。実は続きが気になってたりする?」 茶化すように言うと、彼は傍らの丸椅子を移動させながら言った。 「否定はしない。あのヴァラクが、だぞ? 昔から恋愛の『れ』の字も見当たらないあいつが? 気にならないわけがあるか」 『あの』にアクセントを置いて、力説するアスタロト。まあそうよね、この子もリリーちゃんに興味を示していたわけだし。まあ、横から虎視眈々と狙っていたところをクロセルに盗られちゃったわけだけど。 「…って、ちょっと。それ患者用の椅子なんだけど」 「休診中の札なら出しておいた。数十分は大丈夫だろう」 「……またオリアスがカリカリするわよ」 尊大に足を組むアスタロトに、たしなめるように言う。別にいいけど。オリアスがカリカリしたところで、私たちは何も堪えないのだから。 「そうね。仕方ないわ、話してあげる」 挑発的に唇をつり上げると、彼も同じように口端を上げる。不敵な笑みはアスタロトに一番似合う表情だ。 「はっ。なら俺は聞いてやろう。どんな話でも聞くぞ」 「ふふ。長くなるわよ」 笑って、私は湯気の立つコーヒーをそっと口に含んだ。 *** 「ふぅん…珍しいな」 しゃべり終わるまで、ずっと相槌だけを打っていたアスタロトが、最初に発したのがこれだった。 「そうでしょう? ヴァラクがあんなに冷たくなるまで、紅茶を放っておくなんて」 彼の紅茶への依存性は異常だ。それがあんな風になるなんて、かなり珍しい上におかし… 「いや、お前が」 …い? 「……私は別に変わってないけど」 一瞬だけ停止した思考を無かったことにして、私は平然と答える。 「自分では気づかないものだな、アスタロテ」 「だから、何が?」 いらいらと、指先で机を打つ。私は何も変わってないし、珍しがられるような行動も取ってないわよ。 「気づいていないのならいい。お前のことだ、すぐ分かるだろう」 「何よ。余計気になるじゃない」 澄ました顔でコーヒーを啜っている横顔を睨む。なんとでも言え、と表情が語っていた。 「そんなことより、アスタロテ。今日はどこかで夕食を食べて帰らないか。食材がもう無い」 「あぁ…そうね。あなた、豪華な物しか作らないから、定期的に買い物に行かないとすぐに材料が無くなるのよね…」 「インドカレーが食べたい」 「顔に似合わないわね」 などと他愛もない会話を交わして、私たちは業務に戻った。 というか、さらっと話をずらされたわね。まあ、聞かれたくないなら別にそれでもいいけど。 〜ヴァラクside〜 ガッシャアアアンッ 「……」 …なんだろう、反応できなかった。 手元が狂った…のだろう。僕の足元で、ティーカップが見るも無残に粉砕していた。少しだけ残っていた紅茶が、じわじわと庭園の敷石に染みていく。 「…あーあ」 足元にひざまずき、割れたカップの破片を拾い上げる。まあまあお気に入りだったのに。 無地の白いティーカップは、側面にゆったりとしたひだが入っていて、シンプルでいてクラシカルだった。もう過去形だけど。 「新しいの、買いに行かなきゃな…」 …めんどくさい。 でも、オリアスに頼んだら、なんか変なの買ってきそうだ。前にいっぺん買いに行ってもらったら、ずらっとした幾何学模様が何とも言えない色で彩色されたカップを買ってきたことがある。趣味じゃないので、お金だけ払って持って帰ってもらった。 ため息をつき、とりあえずティーカップの破片を一か所に集める。後で新聞紙か何かにくるんで捨てよう。 「つっ……?」 ぴりりと、指先が痛んだ。破片のとがったところが当たったのだろう、右手人差し指の先が切れていた。じわじわと血の滲んできている傷口を見て、僕は再びため息をついた。 この救急箱を自分に使うことになるなんて。 庭園の片隅から救急箱を引っ張り出し、中から絆創膏を取り出す。…消毒は別にいいだろう。アスタロテにはああ言ったけど、しょせん僕たちは悪魔。この傷も、明日にはきっと治っている。 絆創膏を指先に巻く。左手で巻いたのと、片手で巻いたのとで、お世辞にもきれいに貼れたとは言い難いけど、傷口をふさぐ役割は果たすはずだ。 椅子に座りなおし、手持無沙汰のまま僕は背もたれにぐったりと体重を預けた。 ティーカップを落とした原因は分かり切っていた。あの日の衝撃がまだ尾を引いているのだ。昨日も、うっかり角砂糖を五つも放り込んでしまった。 ……あの日から、三日がたっていた。 あの日。 差し込む陽光、ざわめく人混み、整然とした石畳の道、輝くような笑顔の彼女と、見たこともないくらい甘やかな表情の彼、そして…中途半端に手をあげかけた僕。 ―――僕の入り込む余地なんて、全く無かった。 あいつがあんなに優しい表情をするのは、きっと彼女の前だけで。 そして彼女が、あんなに生き生きとした、僕の醜い嫉妬がすべて霞んでしまうみたいな快活な表情をするのは、きっと彼の前だけ。 お互いが、綺麗にぴったりと合わさったみたいに、お似合いだった。ジグソーパズルを連想したのを覚えている。ぴたりとはまったピース。 あの状況を理解するのに、そう時間はかからなかった。中途半端のままだった手を下ろして、僕は逃げるみたいにしてここに帰ってきた。買い物に行ったはずだったのに、何も買わずに。 「…馬鹿みたい」 テーブルにずるりと突っ伏して、呟く。 ほらね。 やっぱり、僕が告白したところで何が起こるわけでもなかったんだ。僕はただ、うじうじと悩んでいただけ。 アスタロテもきっと知ってた。教えてくれなかったのは…彼女なりの優しさだったのかもしれない。多分、僕に対するのじゃなくて、リリーに対する優しさ。 それで、さっさと告白させて、さっさと諦めさせたかった。きっとそういう筋書きだったんだ。ひとつだけ誤算だったのは、僕の動きがあまりにも遅かったこと。 「…言ってくれれば、僕だって…」 …ちゃんと、諦められたかな…? …自信は無い。だからこそアスタロテはこうして一計を図った。 だって。 こんなに、好きだったんだ。 太陽みたいな笑顔とか、ふわふわの茶髪をいじる仕草とか、小首をかしげる癖とか、僕みたいなのにも構ってくれるところとか、いつもみんなを気遣うところとか、近付くと漂う甘い香りとか、鈴を転がしたみたいな声とか、僕の入れた紅茶をおいしそうに飲んでくれるところとか…。 上げたら、きりがない。リリーのすべてが好きで、好きで、好きで、どうしようもなかった。 「でも…」 もう、あきらめなきゃ。 僕は決してあきらめない! なんて熱い台詞を吐くほどの気力は、僕には備わっていなかった。それに、あいつに敵う気もしない。 リリーが幸せなら、もう僕はそれでいい。 もう、いいんだ。 テーブルに額をつけたまま、目を閉じる。体温が移ったのだろう、テーブルは額に優しく温かかった。 一瞬、頬をつっと滑り落ちる感触がした。頬をゆっくりと伝っていったそれは、落ちた瞬間はひどく熱く感じたのに、そのあとはただただ冷たかった。 …一雨来るのかも。 ぼんやりとそんなことを思う。 *** 「―――何してんのよ」 「……」 不意に響いたのは、あの不遜な赤毛の美女の声だった。 気配にも気付けなかったか。…僕もちょっと弱っているのかもしれない。普段なら、突っ伏していようと何であろうと絶対気付くのに。 「…返事くらいしなさいよ」 「…いま何時?」 「あんた人の話聞いてた?」 ため息をつく気配。わずかな間。 「…五時半よ。何、あんた。時計くらい自分で見なさいよ」 五時半か…。そろそろ帰らなきゃ。 「ん……ありがと」 「……」 無言なのに、なんか引いてる雰囲気が伝わってきた。失礼な。 「どうしたの? あんた、こないだから本当におかしいわよ。いい精神科医知ってるから、教えてあげてもいいけど」 「…ほっといて」 「あっそ」 そっけない返事の後、僕の対面のいすが引かれる音がした。カツリ、ハイヒールの音もする。ふわりと、甘ったるい香水のにおい。 「…帰らないの」 黙って座る気配に、僕は耐え切れずに尋ねた。 「ええ、帰らないわ。…私が興味を示すなんて、ありがたいと思いなさい。別に心配してるわけじゃないけど」 「ん、…ほっといて、大丈夫」 「そんなわけ無いでしょ。あんた、いつも以上に一言一言が短いわよ」 別にいいじゃない。僕が言葉少ななのは、今に始まったことじゃないんだから。 「ほら、吐きなさい。何があったの」 いつになく優しい声が、頭上から降ってきた。 …知ってたくせに。 僕が失恋するって、全部分かってたくせに。 「……しつれん、したんだ」 ぽつんと呟くと、はっと息をのむ気配がした。少しの間をおいて、そう、とだけ返事が返ってくる。思ったよりも、落ち着いた対応。 「告白したの?」 「ううん…」 うつむいたまま、緩くかぶりを振る。告白? するだけ無駄だ。 はあ、とため息が落ちてくる。これだからどいつもこいつも、などとぶつぶつ呟いている。 「…しってたんでしょ」 「…何を?」 「僕がそう遠くない未来に、失恋することを」 「……まあ、ね」 否定はしないわ、とつややかな声。きん、と指先でティーカップをはじく音が聞こえた。 「あんたにしてみりゃ、何をぬけぬけとって感じでしょうね。ええ、私は確かに全部知ってたわ。…あんた、リリーちゃんとクロセルを見たんでしょう?」 テーブルの下で足を組みかえる気配。問いかけたのにもかかわらず、僕の返事を待たずに、彼女は先を続けた。 「リリーちゃんを焚きつけたのは私よ。仲介役ってほどでもないけど、リリーちゃんの背中を押したのは私。でもね、別にクロセルにくれてやったつもりはないの」 「…?」 僕はうつぶせていた頭を、のろのろと上げた。空はすっかり暗い。目の前では、アスタロテが片ひじをついてこちらを見ている。僕の顔を見て、なぜか一瞬つと眉をひそめたアスタロテは、すぐに表情を元に戻してぴっと人差し指を立てた。 「いい? 私はリリーちゃんの幸福を願っている。悪魔の身にも関わらずね。でもね、願う先は彼女一人の幸福よ。あの子がクロセルなんてうざい消えろって願うなら、私は迷わず手を貸すと思うわ。ね、そこはすごく悪魔的だと思わない?」 蠱惑的な響きを持って、アスタロテは滔々と言い切った。 …で、結局のところ何が言いたいんだろう。 僕の疑問を見透かしたように、彼女は「つまりね、」と続ける。 「つまりね、私はあんたの恋路を邪魔しようなんて思ってないの。私が応援したいのはリリーちゃん一人。あの子が幸せなら、パートナーがクロセルであろうとあんたであろうと、関係無いのよ。分かる?」 「……」 えっと。 …ちょっと考えてから、僕は言った。 「僕は、あきらめなくていいってこと…?」 「ま、端的に言うとそうね」 赤い唇を釣り上げて、にたりと笑う。 「だから、そんなひどい顔しない。あんたね、一応顔だけはいいんだから、もったいないわよ」 「……え?」 唐突に、白い手が頬を包んだ。赤いマニキュアの塗られた細い指が、すっと頬をなぞる。 「な、……?」 「…気づいてないんなら、いいわ」 銀朱の瞳がすっと細められた。冷たくて柔らかな白い手は、するりとすぐに離れていく。 「じゃあ、私はこれで帰るから。あんたも、とっとと帰りなさいよ」 彼女はてきぱきと帰り支度を整えて、何事もなかったかのように去って行った。また来るわ、とつややかな声で言って。 ……えーと。 今のは、何だったんだろう。 まだ冷たい感触の残る頬を撫でる。未だ冷たく濡れている頬をいぶかしく思いながら、僕は小さくためいきをついた。 とりあえず僕は、あきらめなくていいらしい。 それだけで、なんとなく救われたような気がした。
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