|
||
〜アスタロテside〜 「はあぁ……」 カルテをつづる手を止め、私はため息をついた。 五十四歳、男性。病状、軽い咳と鼻水。風邪と断定。 …いや、別にカルテの内容に問題があるわけではない。 ヴァラクのことだ。 おととい、私が一人で立てていた作戦は根本から挫折した。リリーちゃんが突如現れるという形で。 あれによって、ヴァラクは告白することを決断できなくなった。もともと慎重で臆病なヴァラクのことだ。『当たって砕けろ』精神は皆無といっていいだろう。 「どうしようかしらねぇ…」 ぽつり、呟いた声に答える者はいない。 病院はすでに診療時間が終わっている。オリアスは今日は何かの集まりでいないし、アスタロトは先に帰ってしまった。つまり、私は一人で残業中というわけ。 私は一度万年筆を置き、コーヒーを淹れるべくして立ち上がる。こういうときは休憩するのが一番だ。 お気に入りのマグカップになみなみとコーヒーを淹れる。ふわりと、独特の芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。 デスクの引き出しからチョコも取り出す。考え事をするときは、糖分もないとね。 「ん…」 一粒、綺麗に装飾されたチョコレートを口に含む。甘い香りが鼻に抜け、口いっぱいにカカオが広がる。 ゆっくりチョコレートを口の中で転がしながら、私はデスクに片ひじをついた。 出来ることなら、面倒事は避けたい。ならば、これ以上かかわらないのが一番だろうが、私にとってリリーちゃんは特別な存在。丸く収められるなら収めたいところだ。 下手にすると、リリーちゃんに恋人がいることがばれてしまう。そのほうが現実を見せることになっていいのかもしれないけど…。 「……なにか…違うわよね………」 まあ、いつの日かばれる日は来るのだろうけれど、またタイミングがずれると、傷心のヴァラクが出来上がるだろう。 出来る限りヴァラクが成長する方面で、こう、みんなが平和になるような考えは浮かばないかしら…。 「……」 というか、なんで私がこんなに悩まなきゃいけないわけ? 「はああぁ……」 やめたやめた。 性に合わないことなんてするものじゃないわ。こういうお節介を焼くのは多分私の役目じゃないし。 私は口の中のチョコレートを早々に噛み砕き、大量のコーヒーでそれを流し込んだ。 疑問を抱けばそれでおしまいだ。もう考える気は完璧に失せた。 手早く後片付けをして、私はさくさくと帰り支度を始める。家ではすでにアスタロトが夕食を作っているだろう。ああ見えて意外と料理好きだから。 白衣を脱いでハンガーにかけ、ブランド物のハンドバッグを手に取る。 一瞬だけデスクの上のカルテを見やる。書きかけのそれは、中途半端に埋めた欄が白く目立った。 ……まあいいか。明日やればいいし。なんならアスタロトかオリアスかに押し付けよう。 小さく肩をすくめ、私は必要な物だけを持って表に出た。 *** 外はすっかり暗かった。 まるく灯りを落とす街灯が、ぽつりぽつりと道を照らしている。 時刻は八時過ぎ。まだ夜はこれからだというのに、石畳の広い道は閑散としていて、この街の住人の大人しさがうかがえる。悪魔の集う街のくせに、まったく恰好がつかない。 …まあ、恰好をつける相手がいないのも事実だけどね。 カツリ、カツリ、と石畳を踏むハイヒールが、小気味よい音を立てる。 黒のエナメル製のそれは、デザインは好きだったがどうにも私の足には合わないようだった。 かかとは既に擦り切れて少し赤くなっている。ここ数日履き続けていたせいだろう、傷はなかなか治らないようだった。 これは今シーズンで使いつぶし確定ね…。 「……あら?」 そんな、どうでもいいことを考えていた矢先。 帰り道途中の、法廷事務所の庭園に人影を見つけた。小柄で華奢な輪郭がぼうっと浮かび上がる。 ――――言うまでもなく、悩みの種、ヴァラクである。 こんな時間に何やってるのよ。 私は小さなため息をつき、靴音も高らかにかつかつと庭園に足を向けた。 「……ヴァラク」 「――――ん。なんだ、アスタロテか…」 ぼうっと視線を下に向けていたヴァラクは、私の姿を認めるとこてんと首をかしげた。 彼の前には、宵闇にぼんやりと白く浮かぶティーカップがあった。いくらなんでもアフタヌーンティーには遅すぎるんじゃないかしら。 そう言うと、ヴァラクは無表情のまま淡々と答えた。 「別にアフタヌーンティーじゃない。夕陽を見ながら飲んでたら、遅くなっただけ」 「あっそ。なら分かると思うけど、夕陽なんてとっくに沈んでるわよ。あんたの趣向にとやかく言う理由も特にないけど、とっとと帰ったほうがいいわ」 この街は一年を通して季節の変化が乏しい。とはいえ、夜は冷え込む上に無法者が現れる可能性もある。決してヴァラクを心配するわけではないが、見かけたのに放置して襲われたりしたら寝覚めが悪い。断じて心配しているわけではない。 「……もうちょっとだけ」 「…………」 ちびちびとティーカップを傾けるヴァラクに、私はイライラと髪をいじくった。 バカなの? えぇそうね、馬鹿よね、知ってるのに聞いた私が馬鹿だった。 「もういいわ。私帰るから。それじゃ、襲われないうちに早く帰りなさいよ」 軽く手を一振りする。そのまま、くるりと踵を返そうとした時だった。 〜ヴァラクside〜 「…待って」 無意識のうちに声が出ていた。 カツリ、甲高いヒールの音が、困惑するように振り向いた。 「…何よ。なにか用?」 不機嫌そうに眇められた朱色の瞳を向けられて、僕は何が言いたかったのかすらわからないということに気がついた。 どうしよう。 なんで声なんかかけたんだろう。一瞬のうちに後悔が胸に押し寄せる。 アスタロテは僕の一番苦手な人物といっても過言じゃないような、そんな人なのに。 そうと分からないようにひそかに視線を泳がせ、僕はなんとか台詞をひねり出す。 「……くつ」 「…は?」 いかにも毒気を抜かれたと言った表情で、僕をぽかんと見つめるアスタロテ。 珍しい表情だ、と現実逃避気味に思いつつ、僕はしどろもどろになりながら続ける。 「……そのくつ、合ってない。擦り傷ができてる」 「………あ…えぇ、まぁ、ね。明日は違う靴を履くことにするわ」 彼女の無防備な表情はすぐに元通りになった。いつもの、性格のきつそうな美女の顔だ。 「消毒、したほうがいい」 「……平気よ。どうせすぐに治るんだから」 「いいから」 そうじゃないと僕が持たない。どうするのこの空気。 なぜか強引に消毒を勧める僕に、アスタロテはあきらめたようにため息をついてカツカツと戻ってきた。 「消毒はありがたいけど、あんた救急箱みたいなの持ってるの? 一応ここ庭園なのよ?」 …ごもっとも。 と、言いたいところだけど、ちゃんとここに完備してある。僕の周りには動物がよく集まるから。怪我した子もちゃんと手当てできるように。 「座って」 「はいはい。分かったわよ任せるわ」 私も医者のはしくれなんだけど、とぼやいたように呟く声に、僕は聞こえなかったふりをした。 僕たち悪魔は、怪我をしてもすぐに治るという特性を持つ。治るスピードは力の大小や、個々の能力によっても違うけれど、それでも大抵の傷はその日のうちに治る。 僕なんかでも、大きな傷で三日あればふさがるだろう。アスタロテは言わずもがな。 …言い訳が苦しいことは自覚している。 でも、ちょうどいい言い訳が口下手な僕に思い浮かぶはずもなく。…よく考えたら、「何でもない」とごまかせばいいだけだったんじゃないかという気もしてきた…。 若干の後悔を顔に出さないようにしながら、僕は救急箱を取り出して、迷わず消毒液を手に取った。 「…ねぇ、本当にあんた頭大丈夫? 本気で消毒しようとするとは思わなかったわよ」 「…医者なら分かるはず。ちょっとの傷でも、菌が入ったら化膿する。化膿したら、いくら悪魔でも回復には時間がかかる」 「いや理屈は分かってるわよ。消毒するまでもないわよ、こんな傷。すぐに回復するわ」 「でもこの傷、一昨日もあった」 「……よく気付いたわね」 苦虫をかみつぶしたみたいな顔になるアスタロテ。アスタロテが傷を残すなんて珍しいから覚えてただけなんだけど。 アスタロテの足元にひざまずき、黒のつやつやとしたヒールを脱がせる。真っ白な裸足がすらりと現れる。 手指と同じ真っ赤なマニキュアが足にもされていた。見えていないのにけっこう手がかかっている。 「…沁みるかも」 傷が意外と痛そうな具合に赤かったので気遣ったものの。 「いいわよ別にそんなの。早く済ませて」 そっけない口調で一蹴された僕は、とりあえずピンセットでつまんだ脱脂綿を消毒液に浸した。球形の脱脂綿がみるみる澄んだ黄土色に染まる。 薄く走った紅の傷に、そっと消毒液をつける。一瞬、びくりとアスタロテが身じろぎした。 やっぱり沁みたじゃない、なんて言えるはずもなく、僕はそのまま丁寧に消毒を続けた。 もう片足にも丹念に消毒を施すと、頭上から呆れたような声が降ってきた。 「あんた、何かあったの? 日が沈んだ後に紅茶飲み続けるわ、突然私を気遣いだすわ、どうかしてるとか思えないわよ」 「……何もない」 「あったのね」 憮然とした顔で彼女を見上げると、薄赤の瞳が静かに見下ろしていた。冷たくも温かくもない、無表情な瞳。 なんで分かるの? 僕は何も言ってないし、何も表情に出してないはずなのに。 物問いたげな視線に気づいたのか、アスタロテは大きなため息をついて言い放つ。 「勘違いしないでよ。あんたになにかあったら、リリーちゃんに影響が及ぶのよ。それを未然に防ぐためなんだから」 消毒ありがと、と軽やかに立ちあがって彼女は言った。 「相談事なら受け付けるわ。まあ、あんたの望む答えが返ってくるとは限らないけれど」 うっすらと、微笑む。三日月形に弧を描いた唇は、やっぱり相変わらず赤いルージュだった。 「じゃあね。さっきも言ったけど早く帰るのよ」 トレンチコートの裾をひるがえし、ストロベリーブロンドを夜風に軽くなびかせて、アスタロテは来た時と同じようにつかつかと帰っていった。 靴音がどんどん遠ざかっていくのを聞きながら、僕はぽつりと一人つぶやいた。 「何か…ね」 昔から、彼女は変に勘がいい。少し汚れた膝をぽん、とはらい僕はベンチに戻って、中身のまだ残っているカップを傾ける。 「……ごふ」 何これ。 とっさに、のどから逆流したそれを、ポケットから取り出したハンカチで抑える。 ……さっきまでまったく気付かなかったけど、中身はすっかり冷え切っていた。 まずい。まずすぎる。アイスティーならともかく、ティーカップに淹れた上に冷めたお茶なんて、まずい以外の何物でもない。 なんで気付かなかったんだろう。 紅茶は、淹れてすぐの熱湯に近い温度がベストな状態。アイスティーとしての飲み方はきんきんに冷やすから、ある意味ふっきれた感じでいいと思うんだけど、こんなふうに中途半端に冷えた紅茶は風味が悪い。淹れていたのがフレーバーティーであるだけに、風味の悪さが際立ってしまってどうしようもない。 陶磁のカップの淵を、指先でそっとはじく。キン、と涼しげな音が庭園に響いて消えた。 「……リリー」 昼間のできごとが、脳裏にフラッシュバックした。 眩むみたいな日光。明るく笑っている彼女。そして――――― 「……帰ろ」 帰って寝よう。なんだかひどく疲れたような気がして、僕は重たいため息をついた。長い間夜気に当たっていた体は芯まで冷え切っていて、僕は小さく身震いする。 濃紺の空には、今にも消えそうな三日月が、頼りなさげに輝いていた。
|