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〜ヴァラクside〜 今日もリリーは来ない。…まあ、当たり前だ。 今考えると、アスタロテはなんて無茶なことを言ったんだろう。 『あきらめなくていい』 ――――確かに、その言葉は僕を救った。でも、それが真実だとは限らない。あきらめるあきらめない云々の話じゃないんだ。 気持ちの整理をつけないといけない。アスタロテが何を考えているのか僕にはわからないけど、僕の中でこの恋は一応の終わりを遂げているのだから。 紅茶を一口啜る。ほのかに香る柑橘系。はらりと、ページのめくる音が響いている。…僕が本を読んでいるわけではない。 僕は小さくため息をついてから、言った。 「……で、なんでいるの」 「いたら悪い?」 軽くあしらうように言って、彼女はすらりと長い脚を組みかえた。難しそうな専門書をめくる、赤いマニキュアの指。銀朱の瞳は伏せられて、その専門書の字を追っているのがうかがえる。 言うまでもない。アスタロテだ。 「……悪くはない、けど…」 「けど?」 「落ち着かない……」 「あらそう。私が美しすぎるのがいけないのね」 「……」 「そこで黙らないでくれる? ただの事実よ」 いやあの、そういう問題じゃないから。 確かにアスタロテは美女だけど、なんか……ここの雰囲気に合わなくて、僕は落ち着かない。 白い石造りのベンチ。対になっている、鉄製の椅子とテーブル(今僕たちがつかっているものだ)。ぐるりと庭園を囲む広葉樹の垣根。ところどころに背の高い木が植わっていて、春になると花を咲かせる。退屈だけれど、のどかで小さな憩いの場だ。 そこに、このアスタロテ。……紅茶とコーヒーをいっしょくたにしたような違和感がある。真っ白な医務室の中では違和感がないというのだから、本当に不思議だ。 というか、違和感の塊がここでくつろいでいるのが一番の不思議なんだけど。 「お茶を入れてくれない? 出来ればコーヒーがいいんだけど」 「……」 精一杯の反抗の視線をアスタロテに向ける。…無駄だった。彼女はちらりとも本から視線を上げない。 僕は再びため息をついて、仕方なく二つ目のティーカップを取り出した。空になっていた僕のカップと一緒に、なみなみと琥珀色を満たす。 「……これでいい?」 「えぇ、ありがと」 やはり専門書から目を上げないアスタロテが、上の空という感じでそんなことを言った。…僕はぴきん、とその場に凍りついた。 「………」 …アスタロテがおかしい。 え。何、お礼? え、アスタロテが? …きっと幻聴だ。 「何か失礼なことを考えてるでしょう?」 「…気のせい」 何事もなかったかのように淡々と言い、僕は澄ました顔で紅茶を啜った。 …明日は雪が降るのかもしれない。まだ冬じゃないけど。 アスタロテは最近よく来る。なぜか。 医者の仕事だって忙しいだろうに。アスタロテは美容整形外科が専門だけれど、なんだかんだで総合的に医療は勉強しているわけだから、診察はどんな病気でも駆り出されると言っていた。 そもそも悪魔が経営している病院なんだから、どんな医療ミスがあっても文句は言えないだろう。ある意味闇医者に近い感じだが、腕がいいから余計に性質が悪い。そして、あそこはここらで一番大きな病院だ。 …そう考えると、なんてあこぎな商売。 「…やっぱり失礼なこと考えてない?」 「…気にしすぎ」 変なところで勘がいいのは昔からだ。ぎくってなるからやめてほしい。 胡乱げな視線を向けられるのをしれっと無視して、僕はテーブルに頬杖をついた。 「あー…コーヒーが飲みたいわ」 「…文句言うなら帰って」 「あんたの紅茶も悪くないんだけれどね」 「……」 …本当に雪が降るかも。 やっぱりコーヒーよねぇ、などと呟いているカフェホリックを前に、半ば本気に思った。 自分が淹れる紅茶に、僕はそれなりの自信を持っている。だけど、褒められたことはそう多くない。そもそもふるまう人が少ないからだ。 でも。でも、だ。 アスタロテが『悪くない』なんて言うとは。素直な嬉しさよりも、衝撃と驚愕が大きい。 「変だ……」 「何が?」 ぱらり、ページをめくりながら、アスタロテが目もあげずに言った。 「……アスタロテ、なんか最近おかしい」 「あら、心外ね。言っておくけど、あんたもけっこう変だったわよ、この間。私よりも自分の心配をしたらどう?」 ちらりと視線を上げて、アスタロテはにたりと笑う。赤い唇がつりあがって三日月形になった。 いつもの彼女の表情だ。 「……」 「私のことを気にしているような場合じゃないでしょう。前にも言ったわよね、あんたには押しが足りないって。こんなとこでのんびりお茶してないで、とっととリリーちゃんを誘惑するなりなんなりしておいでなさいな」 …僕の気のせい…なのかな。 すらすらと、立て板に水のごとく述べるアスタロテは、いつもと全然変わらない。 …お礼言ったり僕のお茶褒めたり、ちょっと変なことはあるけど。もしかしたら、何か事件があってそれ以来変わっちゃったとか。そんなのかもしれない。 ……何にしても、僕には関係ないことだ。多分。 思いながら、僕は黙って紅茶を啜った。 〜アスタロテside〜 「しつれん、したんだ」 そう、彼は言った。 か細い、かすれた声が耳にざらついた。 だというのに、告白したのかと聞くと、答えは否だった。まったく、これだからどいつもこいつも、あーだこーだとうだつのあがらない。案外リリーちゃんと似たところがあるのかもしれない。クロセルと出会う前なら、ヴァラクにもチャンスはあったのに。 ……気づいたら、なぜか言ってしまっていた。 …馬鹿な事をしたわ。 あきらめなくていい、なんて。 明言はしてない。ただ、ニュアンス的にはそういうことだ。事実、わたしは別にクロセルを認めたわけではない。だって、ねぇ? あいつ、リリーちゃんを泣かせたもの。…まあ、だからと言って、ヴァラクに余計な希望を与えることに、直接の関係は全くないのだけれど。 でも。 自分が泣いていることにすら気づいていないヴァラクを見ていたら、なんとなく言ってしまっていたのだ。 大きな瞳いっぱいに涙をためるのを、白いほっぺたにはたはたとしずくが落ちていくのを、何事もなかったかのような無表情を、無表情なのに迷子みたいに不安そうな影を持つ瞳を。 見てしまった。 そして、気づいてしまった。 ――――――あろうことか、私はあのヴァラクが好きなのだということに。 *** 「はぁ……」 なんてこと。 我ながら意味が分からないわ。 私には、男なら誰だって魅落とす自信がある。もしかしたら同性だっていけるかもしれない。それこそ一国の王だって、絶世の美男だって、なんなら美女だって選び放題というわけだ。だって私は悪魔だもの。本気になれば手練手管のすべてを、余すところなく活用するだろう。 それがヴァラク!? …なんて張り合いのない。 「ありえないわ……」 ゆったりとひじかけに肘をついて、片手で両目を覆う。 私から人(悪魔も含め)を本気で好きなったことなんて、ただの一度もない。大抵は、私から誘惑する。ふらふらと色香に釣られた馬鹿な男どもを手のひらで転がすのは、まあそれなりに楽しい。…それが楽しくない今がおかしいのだ。 どうしてもヴァラクが気になって、ついつい彼のいる庭園へと足を運んでしまう。もはや病気だ。別にあいつのそばにいたいとかそういうんじゃなくて、ちょっと気になるからっていうだけだから。 「おい、アスタロテ。夕食が出来たぞ」 階下からの呼び声に、私はため息をついた。 「今行くわ。少し待って」 下に向かって返事をすると、できたてが美味いから速く降りてこいと催促が来た。なんなのよもう、アスタロトのくせに。 椅子をデスクの中にしまいながら考える。 いくら分身のような弟とはいえ、ヴァラクに恋して悩んでるなんて相談、できっこない。面白がられるのが関の山だ。というか、実は気づいてるような節もあるけれど、それとこれとは別だ。 「…オリアスに相談しようかしら」 …彼なら信用に足る。悪魔が信用なんておかしなことだけれど。お得意の占星術で占ってもらうのもありかもしれない。私の恋愛運について。 「…そうしましょ」 アスタロトに面白がられながら相談するよりも、よっぽどましだ。事情を説明しなくても相談できるという利点もある。 明日の予定を確約して、私はアスタロトの待つ階下へと降りて行く。きっと今日の夕食も豪華なのだろう。材料を大量に買い込んでいたから。 廊下には、スパイスらしき香りが色濃く漂っていた。
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