権力色の皮、おわり
シーンバインが美術館の前に立っていると、あたりを見回しながら歩いている人物が見えた。軽く手を挙げて合図を送ると、気づいた彼女は足早にまっすぐ近寄ってきた。淡いピンクベージュの襟ぐりの広いニットセーターに、色落ちで深みのあるすっきりとしたクロップドジーンズをはいている。足には真っ赤なパンプスだ。飾り気のない服装だが、それが彼女の美しさをより一層引き立てていた。大きなバスケットを手に持ち、カメラストラップを肩にかけている。
「おまたせしました」
毅然とした表情で彼女は言った。シーンバインはもう一度彼女を眺めて笑みを見せた。
「これはこれは。私のためだと思えば、普段の装いもなお美しく見えますね」
もちろん、本心からの言葉だったのだが、彼女はふっと表情を曇らせた。どうあっても自分の言葉は信じてもらえないらしい。彼は心の奥でため息をついた。
「さて、どちらへまいりましょうか。ご案内して差し上げたいのですが、食事もお買い物も喜ばれないようなので…」
彼女は少し考えた後、肩に下げたカメラを見て顔をあげた。
「どこか、お好きなロケーションはありませんか。建物でも、公園でも」
「それなら、少し遠いですがご案内しましょう。向こうに車を停めています」
シーンバインはついてくるように促したが、彼女はその場でたたずんだままだった。振り返って、手を差し伸べる。
「運転手は置いてきました。私が運転します」
そういうと、彼女は納得したようだった。しかし彼の手をとることはなく、颯爽と歩き出した。シーンバインは彼女に並んで少し前を歩く。
「贅沢や、権力がお嫌いですか」
「いいえ。でも、それしかないのは寂しいでしょう」
彼女はうつむきがちにぽつりと答えた。横目で彼女の表情をうかがう。消え入りそうな横顔だった。
シーンバインが車で向かったのは、郊外にある小さな古城だった。辺りには人気がなく、草原が広がっていた。彼女は車からおりると、城を見上げて大きく息を吸った。
「すごい…。こんなところに古城なんてあったんですね。知りませんでした」
「地元では有名すぎて、改めて見に行くものでもないですからね」
彼女は、あ、と声を漏らしてすまなさそうにうつむいた。
「付き合ってもらって、すみません」
「いえ…、そういうつもりで言ったわけでは」
彼女があまりに素直なので、シーンバインは思わずうろたえて、しどろもどろになってしまった。彼女はその様子を見て、少し安心した顔をした。
「あの、写真を撮ってきてもいいですか」
「ええ、もちろん。お荷物をお持ちしましょう」
そう言って彼女の抱えていたバスケットを受け取った。何を入れているか知らないが、ずっしりと重かった。
身軽になった彼女はカメラを構えてあちらこちらをうろうろしていた。角度を変え、構図を変え、何度もシャッターを切った。シーンバインは初めのうちは彼女のあとをついて見ていたのだが、途中でやめてしまった。彼女がすさまじい集中力で、自分の世界へ入り込んでしまったからだ。彼は古城から少し離れたところで草原に腰をおろした。見れば、彼女は城だけではなく木でも空でも様々なものを写真におさめていた。
シーンバインはぼんやりと空を見上げた。地中海気候にふさわしい青空がただ広がっている。平凡な空だ。それが彼女のファインダーを通せばあんなに美しく見えるのかと思うと、妙な気持ちがした。同じ景色を見ていても決して分かち合えないのだ。
「すみません。つい、夢中になってしまいました」
ゆったり流れる雲を眺めていると、彼女が駆け寄ってきた。大切そうにカメラを抱えたまま、息を切らしている。
「構いませんよ。あなたの腕がますます磨かれると思えば、楽しみです」
彼女はその言葉をどう受け止めたものかわからず、戸惑いがちにはにかんだ。
「あの、お腹、すきませんか」
「ああ、どこかへ食べに行きましょうか」
「いえ、持ってきたんです」
彼女はシーンバインの横にしゃがみこむと、バスケットをあけて包みを取り出した。中身はサンドウィッチだ。
「どうぞ」
ふたつある包みのうち一方を彼に差し出した。
「私の分、ですか」
彼女はこくりと頷いた。
「食事の時間がないそうなので。これならすぐに食べられるでしょう」
包みを受け取ってぼんやり眺めていると、彼女は不安げに顔をのぞきこんできた。
「…サンドウィッチはお嫌いですか」
いいえ、と断りながら、シーンバインは目をそらす。
「こういう手料理は久々です。レストランでの会食などが多いので」
彼女はしまったと言うふうに声を漏らした。先日のカフェを思い出す。いつもああいうところで食事をしているなら、自分の料理など口に合わないかもしれない。
そんな彼女の心配をよそに、シーンバインはサンドイッチをつまみあげて口へ運んだ。中身はハムとレタスだけでシンプルだったが、マスタードがピリリと効いていた。
「おいしいですね」
「…よかった」
彼女はほっと息をついてほほえんだ。とても自然な、いつも遠目に見ていた笑顔だった。それが自分に向けられたのは初めてだなとシーンバインはじんわりと思った。
食事を終え、水筒で持ってきたコーヒーを飲んで一息つくと、シーンバインは立ち上がった。まだ座ったままの彼女を見下ろして尋ねる。
「城へ上がってみませんか」
「勝手に入ってもいいんですか?」
彼女がきょとんとしているのが妙におかしく、彼は笑った。
「大丈夫でしょう。子どものころに、祖父とよく来たんですよ」
「ああ、おじいさんと。いいですね」
彼女は立ち上がって尻についた草を払いながら、ふいに尋ねた。
「そういえば、ご両親とは?あまり話を聞きませんけれど」
その瞬間に、シーンバインの顔がこわばった。その目はたちまちに色を失って、沈んでしまった。
「さあ…、どうでしょうね」
それだけ言うと、彼はバスケットを持ち上げた。
「さて、急ぎましょう。そろそろ日が暮れますから」
城の階段は傾斜が高く、普通に歩いても息が切れた。シーンバインが足早にのぼっていくので、彼女は追いかけるのに精一杯だった。両親のことを聞いたので気分を悪くしたのだろうか。そう考えるとますます疲れが襲ってきた。はるか前を歩く彼の後姿を見上げて、うつむき、足を止めた。
シーンバインはすぐに気づいたようで、振り返り、彼女の名前を呼んだ。そうして、彼女のいるところまでおりてきて、手を差し伸べた。
「大丈夫ですか。もう少し、がんばってください」
言われて、そっと顔をあげた。すぐそこに、シーンバインが真剣な表情で彼女を見守っていた。彼女は大きく息をついて、きゅっと唇を結んだ。差し出された手を取ると、ぎゅっと握り返されて、力強く手を引かれた。二人はそのまま一歩一歩、城の狭い階段をのぼっていった。
閉ざされた薄暗い階段をのぼりきると、真っ白にまばゆい光が目を焼いた。ちょうど夕日が沈んでいくところだった。真正面には海が広がり、きらきらと太陽の色が溶け出している。夕日が沈み始めるほんの短い時間しか見ることができない、とても美しい光景だった。
「これを見せようとして?」
シーンバインを振り返ると、彼は伏し目がちに口の端を緩めただけで、海へと視線をやってしまった。それを見て、彼女も同じように同じ景色を見つめた。
太陽は氷のように、見る見るうちに海へと溶けていった。空にはほの明るい薄紅色が残った。彼女は名残惜しそうにため息をついた。シーンバインはそれを見届けてから尋ねた。
「写真をとらなくて、よかったのですか」
彼女はまったく忘れ去っていたらしい。間抜けな声を漏らして、照れくさそうに笑った。
「また、つれてきてください」
「…そうですね」
彼女が笑いかけるので、シーンバインもそっとほほえんだ。
「今日の写真、できたらお送りします」
帰り道、車の中で彼女が言った。シーンバインはわざと意地悪く「いいのですか?」と笑って見せた。商業用に転用するかもしれませんよ、と。しかし彼女はすべてを見通したようすで、ただただきらきらとほほえんでいた。
「おまたせしました」
毅然とした表情で彼女は言った。シーンバインはもう一度彼女を眺めて笑みを見せた。
「これはこれは。私のためだと思えば、普段の装いもなお美しく見えますね」
もちろん、本心からの言葉だったのだが、彼女はふっと表情を曇らせた。どうあっても自分の言葉は信じてもらえないらしい。彼は心の奥でため息をついた。
「さて、どちらへまいりましょうか。ご案内して差し上げたいのですが、食事もお買い物も喜ばれないようなので…」
彼女は少し考えた後、肩に下げたカメラを見て顔をあげた。
「どこか、お好きなロケーションはありませんか。建物でも、公園でも」
「それなら、少し遠いですがご案内しましょう。向こうに車を停めています」
シーンバインはついてくるように促したが、彼女はその場でたたずんだままだった。振り返って、手を差し伸べる。
「運転手は置いてきました。私が運転します」
そういうと、彼女は納得したようだった。しかし彼の手をとることはなく、颯爽と歩き出した。シーンバインは彼女に並んで少し前を歩く。
「贅沢や、権力がお嫌いですか」
「いいえ。でも、それしかないのは寂しいでしょう」
彼女はうつむきがちにぽつりと答えた。横目で彼女の表情をうかがう。消え入りそうな横顔だった。
シーンバインが車で向かったのは、郊外にある小さな古城だった。辺りには人気がなく、草原が広がっていた。彼女は車からおりると、城を見上げて大きく息を吸った。
「すごい…。こんなところに古城なんてあったんですね。知りませんでした」
「地元では有名すぎて、改めて見に行くものでもないですからね」
彼女は、あ、と声を漏らしてすまなさそうにうつむいた。
「付き合ってもらって、すみません」
「いえ…、そういうつもりで言ったわけでは」
彼女があまりに素直なので、シーンバインは思わずうろたえて、しどろもどろになってしまった。彼女はその様子を見て、少し安心した顔をした。
「あの、写真を撮ってきてもいいですか」
「ええ、もちろん。お荷物をお持ちしましょう」
そう言って彼女の抱えていたバスケットを受け取った。何を入れているか知らないが、ずっしりと重かった。
身軽になった彼女はカメラを構えてあちらこちらをうろうろしていた。角度を変え、構図を変え、何度もシャッターを切った。シーンバインは初めのうちは彼女のあとをついて見ていたのだが、途中でやめてしまった。彼女がすさまじい集中力で、自分の世界へ入り込んでしまったからだ。彼は古城から少し離れたところで草原に腰をおろした。見れば、彼女は城だけではなく木でも空でも様々なものを写真におさめていた。
シーンバインはぼんやりと空を見上げた。地中海気候にふさわしい青空がただ広がっている。平凡な空だ。それが彼女のファインダーを通せばあんなに美しく見えるのかと思うと、妙な気持ちがした。同じ景色を見ていても決して分かち合えないのだ。
「すみません。つい、夢中になってしまいました」
ゆったり流れる雲を眺めていると、彼女が駆け寄ってきた。大切そうにカメラを抱えたまま、息を切らしている。
「構いませんよ。あなたの腕がますます磨かれると思えば、楽しみです」
彼女はその言葉をどう受け止めたものかわからず、戸惑いがちにはにかんだ。
「あの、お腹、すきませんか」
「ああ、どこかへ食べに行きましょうか」
「いえ、持ってきたんです」
彼女はシーンバインの横にしゃがみこむと、バスケットをあけて包みを取り出した。中身はサンドウィッチだ。
「どうぞ」
ふたつある包みのうち一方を彼に差し出した。
「私の分、ですか」
彼女はこくりと頷いた。
「食事の時間がないそうなので。これならすぐに食べられるでしょう」
包みを受け取ってぼんやり眺めていると、彼女は不安げに顔をのぞきこんできた。
「…サンドウィッチはお嫌いですか」
いいえ、と断りながら、シーンバインは目をそらす。
「こういう手料理は久々です。レストランでの会食などが多いので」
彼女はしまったと言うふうに声を漏らした。先日のカフェを思い出す。いつもああいうところで食事をしているなら、自分の料理など口に合わないかもしれない。
そんな彼女の心配をよそに、シーンバインはサンドイッチをつまみあげて口へ運んだ。中身はハムとレタスだけでシンプルだったが、マスタードがピリリと効いていた。
「おいしいですね」
「…よかった」
彼女はほっと息をついてほほえんだ。とても自然な、いつも遠目に見ていた笑顔だった。それが自分に向けられたのは初めてだなとシーンバインはじんわりと思った。
食事を終え、水筒で持ってきたコーヒーを飲んで一息つくと、シーンバインは立ち上がった。まだ座ったままの彼女を見下ろして尋ねる。
「城へ上がってみませんか」
「勝手に入ってもいいんですか?」
彼女がきょとんとしているのが妙におかしく、彼は笑った。
「大丈夫でしょう。子どものころに、祖父とよく来たんですよ」
「ああ、おじいさんと。いいですね」
彼女は立ち上がって尻についた草を払いながら、ふいに尋ねた。
「そういえば、ご両親とは?あまり話を聞きませんけれど」
その瞬間に、シーンバインの顔がこわばった。その目はたちまちに色を失って、沈んでしまった。
「さあ…、どうでしょうね」
それだけ言うと、彼はバスケットを持ち上げた。
「さて、急ぎましょう。そろそろ日が暮れますから」
城の階段は傾斜が高く、普通に歩いても息が切れた。シーンバインが足早にのぼっていくので、彼女は追いかけるのに精一杯だった。両親のことを聞いたので気分を悪くしたのだろうか。そう考えるとますます疲れが襲ってきた。はるか前を歩く彼の後姿を見上げて、うつむき、足を止めた。
シーンバインはすぐに気づいたようで、振り返り、彼女の名前を呼んだ。そうして、彼女のいるところまでおりてきて、手を差し伸べた。
「大丈夫ですか。もう少し、がんばってください」
言われて、そっと顔をあげた。すぐそこに、シーンバインが真剣な表情で彼女を見守っていた。彼女は大きく息をついて、きゅっと唇を結んだ。差し出された手を取ると、ぎゅっと握り返されて、力強く手を引かれた。二人はそのまま一歩一歩、城の狭い階段をのぼっていった。
閉ざされた薄暗い階段をのぼりきると、真っ白にまばゆい光が目を焼いた。ちょうど夕日が沈んでいくところだった。真正面には海が広がり、きらきらと太陽の色が溶け出している。夕日が沈み始めるほんの短い時間しか見ることができない、とても美しい光景だった。
「これを見せようとして?」
シーンバインを振り返ると、彼は伏し目がちに口の端を緩めただけで、海へと視線をやってしまった。それを見て、彼女も同じように同じ景色を見つめた。
太陽は氷のように、見る見るうちに海へと溶けていった。空にはほの明るい薄紅色が残った。彼女は名残惜しそうにため息をついた。シーンバインはそれを見届けてから尋ねた。
「写真をとらなくて、よかったのですか」
彼女はまったく忘れ去っていたらしい。間抜けな声を漏らして、照れくさそうに笑った。
「また、つれてきてください」
「…そうですね」
彼女が笑いかけるので、シーンバインもそっとほほえんだ。
「今日の写真、できたらお送りします」
帰り道、車の中で彼女が言った。シーンバインはわざと意地悪く「いいのですか?」と笑って見せた。商業用に転用するかもしれませんよ、と。しかし彼女はすべてを見通したようすで、ただただきらきらとほほえんでいた。
■作者メッセージ
三人称で視点交代をすると最高に読みづらかったですね、すみません。
「権力色の皮」完結です。
シーンバインさんは写真集やパーティーのチケットなどで人を釣ろうとしますよね。それは自分に魅力がないと彼自身が思っているからなんじゃないかな。誰も彼を好きになってくれなかったから、物やお金で補って仲間をつくろうとした。そういうのって、いやだよね、さみしいよねって話でした。
あと彼は紳士です。
次は彼の両親について言及したいです、設定まとまってないけど。ケスタロージャさんの話も書きたいなあ。どっちのほうがいいでしょうね。
「権力色の皮」完結です。
シーンバインさんは写真集やパーティーのチケットなどで人を釣ろうとしますよね。それは自分に魅力がないと彼自身が思っているからなんじゃないかな。誰も彼を好きになってくれなかったから、物やお金で補って仲間をつくろうとした。そういうのって、いやだよね、さみしいよねって話でした。
あと彼は紳士です。
次は彼の両親について言及したいです、設定まとまってないけど。ケスタロージャさんの話も書きたいなあ。どっちのほうがいいでしょうね。