茶髪の少年
「♪〜」
鼻歌を歌いながら軽い足取りで道を進む。異国に留学することをこれまで目標に頑張ってきたけれど、新しい生活にまったく不安がなかったわけではなかった。だって、日本語は一切通じないし、家族とも本国の友人とも疎遠になってしまうし、実のところ不安たらたらだったのだ。けれども私は予想以上にいい環境で暮らせている。セルトもミルズさんもいい人だし、イナちゃんっていう可愛い友達も出来ちゃったし、サラッオ先生も日常会話に支障の出ないようにとわざわざ語学を教えてくれている。これ以上ないくらい好調な滑り出しに私は浮かれていた。 だからだろうか。私はすっかり忘れてしまっていたのだ。この時間帯には路地裏に入るなよ・とセルトに散々忠告されていたことを。
「ちょっとキミ、キミい!」
「? 私ですか?」
「そーそー、キミさあ、地元の子じゃないよね。観光客?」
「あ、いえ。ブレラ校に留学してきたんです」
「あー留学生ねえ。ここら辺、治安悪いの知ってる?」
「…あ! (忘れてた!)」
「出口まで案内してあげるからさあ、ついてきなよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
危ない危ない。そう言えば今の時間の路地裏は特に危ないんだった。セルトにもミルズさんにも、もっと言うとイナちゃんにまで言われていたのにすっかり頭から抜けてしまっていた。たまたま親切な人に声をかけてもらったからいいものの、こんなところで目つきの悪い人に恐喝されていたら私の所持金が全てなくなっていたところだったよ。もしかしたらカメラだって盗られてしまったかも知れない。もう忘れないようにしよう・そう心の中で決めたと同時に、前を歩いていた男のひとが止まった。どうしたのだろう。まだ路地裏からは出ていないように見える。だって何だかさっきよりも暗いような気もするし、もしかして道を間違えてしまったのだろうか? ここに来るまでも複雑な道順だったから、そういうこともあるのかも知れない。相手は言い出し辛いのかもしれないのかもしれないと考え、私は口を開いた。
「あの、どうされたんですか? もし道を間違えてしまったなら…」
「いやいやあ、これで合ってるよ? もう着いた」
「え、ここが出口ですか?」
「キミ頭弱いねー。出口なわけないじゃん?」
え…と私が小さく声を漏らすと同時に、後ろから両肩をつかまれた。恐る恐る振り返ると、そこには大柄な男性が二人。ちょうど、私が想像していたような目つきをしていた。焦って前を歩いていた男性を見やると、にやりと笑って何かをしゃべりだした。訛りが強いのと早口なのとで私には全然聞き取れない。何が起こっているんだろう。もしかして、いやもしかしなくともこの雰囲気はやばいんじゃないだろうか。いま、私はこの三人の標的にされているんじゃないだろうか。え、ちょっと待て。それはやばい。結構、いやかなりやばい。しかし私の両肩は二人の大男によって固定されていて、まったく動かせられない状況だ。しかもここにくるまでにかなり複雑に右折左折してきたから、一般の人がたまたま通りかかって警察に通報してくれるなんて素敵展開は無いに等しいだろう。やっばーい。絶体絶命のピンチって多分こういうことだよね。そんなことをぐるぐると考えていると、ふいに首が軽くなった。何だろうと思い顔を上げると、私のカメラが目の前にある。…あれ、おかしくない? 私ちゃんと首にかけてたはずだよね。何で目の前の男がそれを持ってるの? 不思議に思ってよく見ると、カメラの紐が何か鋭利なもので切られたかのようになっていた。つまり恐らくは目の前の男がカメラの紐を切って奪ったということで間違っていないと思う。その結論まで至ってから、私は顔が熱くなるのを感じた。許せない。私はとっさに右足を前に出して、その男の腹を思いっきり蹴った。
「返して! それは大事なものなの!」
「いってえ! ってめえ…! ―――――!」
後半はまた聞き取れなかったけれど、その男が右腕を上げたのを見て理解した。 殴られる! ぎゅっと目をつむり、来るであろう痛みを覚悟した。…が、しばらくしても痛みは来ない。何故だろう、と目を開けると同時にドゴッという鈍い音がした。けれどそれは私が殴られた音ではない。眼前では何故かさっきの男が茶髪の少年に飛ばされていたのだ。急展開。頭がついていきません。私が現状を把握出来ずにぼうっと突っ立っていると、両肩の重みが消えた。驚いて振り返ろうとしたら、その前に私は手首をつかまれ引っ張られてしまっていた。引きずられるように走りながら、さっきの男かと思って掴んでいる手の主をギッと睨むと、緑色の目が見えた。否、目が合った。よく見るとそれは先ほどの茶髪の少年で、私は睨んでしまったことをすぐさま後悔した。馬鹿か私は。助けてくれたのに睨むって…。
あれ、この場合これは助けてくれたってことでいいんだよね? よくわからなくなってきた。でも、とりあえずさっきの男たちから逃げられたのだからこれは助かったんだろう。よかった。
「あ、あの! 助けてくれてありがとう! 私 」
「…これ」
「え? …あ! 私のカメラ!」
お礼を言おうと口を開いたのに、それはばっさりと遮られてしまった。代わりに少年が立ち止まって差し出したのは、先ほど男に奪われたカメラ。あのごたごたの中で彼が取り返してくれていたらしい。手元に自分のカメラが戻ってきたことに安心して私は「よかったあ…」と呟く。もう一度ちゃんとお礼を言おうと思って顔を上げると、彼はもうそこにはいなかった。代わりに私の目に映っていたのは、見覚えのある大通りの賑やかな様子だけ、だった。
鼻歌を歌いながら軽い足取りで道を進む。異国に留学することをこれまで目標に頑張ってきたけれど、新しい生活にまったく不安がなかったわけではなかった。だって、日本語は一切通じないし、家族とも本国の友人とも疎遠になってしまうし、実のところ不安たらたらだったのだ。けれども私は予想以上にいい環境で暮らせている。セルトもミルズさんもいい人だし、イナちゃんっていう可愛い友達も出来ちゃったし、サラッオ先生も日常会話に支障の出ないようにとわざわざ語学を教えてくれている。これ以上ないくらい好調な滑り出しに私は浮かれていた。
「ちょっとキミ、キミい!」
「? 私ですか?」
「そーそー、キミさあ、地元の子じゃないよね。観光客?」
「あ、いえ。ブレラ校に留学してきたんです」
「あー留学生ねえ。ここら辺、治安悪いの知ってる?」
「…あ! (忘れてた!)」
「出口まで案内してあげるからさあ、ついてきなよ」
「本当ですか! ありがとうございます!」
危ない危ない。そう言えば今の時間の路地裏は特に危ないんだった。セルトにもミルズさんにも、もっと言うとイナちゃんにまで言われていたのにすっかり頭から抜けてしまっていた。たまたま親切な人に声をかけてもらったからいいものの、こんなところで目つきの悪い人に恐喝されていたら私の所持金が全てなくなっていたところだったよ。もしかしたらカメラだって盗られてしまったかも知れない。もう忘れないようにしよう・そう心の中で決めたと同時に、前を歩いていた男のひとが止まった。どうしたのだろう。まだ路地裏からは出ていないように見える。だって何だかさっきよりも暗いような気もするし、もしかして道を間違えてしまったのだろうか? ここに来るまでも複雑な道順だったから、そういうこともあるのかも知れない。相手は言い出し辛いのかもしれないのかもしれないと考え、私は口を開いた。
「あの、どうされたんですか? もし道を間違えてしまったなら…」
「いやいやあ、これで合ってるよ? もう着いた」
「え、ここが出口ですか?」
「キミ頭弱いねー。出口なわけないじゃん?」
え…と私が小さく声を漏らすと同時に、後ろから両肩をつかまれた。恐る恐る振り返ると、そこには大柄な男性が二人。ちょうど、私が想像していたような目つきをしていた。焦って前を歩いていた男性を見やると、にやりと笑って何かをしゃべりだした。訛りが強いのと早口なのとで私には全然聞き取れない。何が起こっているんだろう。もしかして、いやもしかしなくともこの雰囲気はやばいんじゃないだろうか。いま、私はこの三人の標的にされているんじゃないだろうか。え、ちょっと待て。それはやばい。結構、いやかなりやばい。しかし私の両肩は二人の大男によって固定されていて、まったく動かせられない状況だ。しかもここにくるまでにかなり複雑に右折左折してきたから、一般の人がたまたま通りかかって警察に通報してくれるなんて素敵展開は無いに等しいだろう。やっばーい。絶体絶命のピンチって多分こういうことだよね。そんなことをぐるぐると考えていると、ふいに首が軽くなった。何だろうと思い顔を上げると、私のカメラが目の前にある。…あれ、おかしくない? 私ちゃんと首にかけてたはずだよね。何で目の前の男がそれを持ってるの? 不思議に思ってよく見ると、カメラの紐が何か鋭利なもので切られたかのようになっていた。つまり恐らくは目の前の男がカメラの紐を切って奪ったということで間違っていないと思う。その結論まで至ってから、私は顔が熱くなるのを感じた。許せない。私はとっさに右足を前に出して、その男の腹を思いっきり蹴った。
「返して! それは大事なものなの!」
「いってえ! ってめえ…! ―――――!」
後半はまた聞き取れなかったけれど、その男が右腕を上げたのを見て理解した。
「あ、あの! 助けてくれてありがとう! 私
「…これ」
「え? …あ! 私のカメラ!」
お礼を言おうと口を開いたのに、それはばっさりと遮られてしまった。代わりに少年が立ち止まって差し出したのは、先ほど男に奪われたカメラ。あのごたごたの中で彼が取り返してくれていたらしい。手元に自分のカメラが戻ってきたことに安心して私は「よかったあ…」と呟く。もう一度ちゃんとお礼を言おうと思って顔を上げると、彼はもうそこにはいなかった。代わりに私の目に映っていたのは、見覚えのある大通りの賑やかな様子だけ、だった。