一瞬、心臓の鼓動が止まるかと思った私の前に姿を現したのは、ソロレスさんだった。
「おや、これはハル殿。皇子に何か急ぎの用事でもおありですか?」
「いえ、あの、その・・・ソロレスさん、今、皇子は、お時間、ございますか?」
ソロレスさんは、ふと後ろを振り返ると、音をたてないように、そっと扉を閉めた。
「いえ、皇子は若干、お疲れのご様子でした。なので、お休みになられるよう申し上げたところです」
「そうですか・・・」
出鼻をくじかれるとはこのことだ、と思った私は、それまでの勢いはどこへやらで、下唇を軽く噛みしめた。早鐘を打ったような鼓動は、少しずつ、いつもの平静さを取り戻しつつあった。
「何か、皇子にご用件でしたら、私が承(うけたまわ)りますが・・・」
いつもなら、毅然(きぜん)とした態度のソロレスさんが、何やら思案顔だった。そして、扉の向こうには聞こえないようにと気遣っているのかな?とも思えるような風で、私にそう声をかけてくれた。けれども、まさか、アルト皇子に伝えようと思った言葉を、ここでソロレスさんに告げるなんて、出来るはずもなかった。
「あ・いえ、えっと・・・じ、自分から皇子へ直接お話ししたい事がございまして、ですから、皇子のご都合の良い時があれば、また、伺いますので・・・」
なんだかしどろもどろになっている己に心の中で苦笑しながら、私は、体の前で揃えていた両手の指で、ドレスをくしゅっと握りしめた。そして、軽く会釈をしてその場を去ろうと両手で、改めて、ドレスの端をつまみ直した時だった。
「ハル殿も、日頃の学問や研究や訓練で、お疲れでしょうから・・・」
ソロレスさんに、昼下がりの庭園を一緒に歩きませんかとの、お誘いを受けたのだ。少し気の抜けた私でもあったし、特に断るような理由もなかったし・・・何といっても陽が高いのだし、ソロレスさんと一緒なら、エグザも心配しないだろう・・・。エグザの用意してくれる、ティータイムまでには、少し時間もあった。いい気分転換になるしね!そう思った私は、
「喜んでご一緒させて頂きます」
ソロレスさんに倣って、扉の向こうへ声が響かないよう、そっと、そう答えた。
シェイエの手入れする宮廷の庭園は、とりどりの花が咲いていて、どの緑も、磨かれたように生き生きとしていた。飛び交う蝶さえもが、燦々(さんさん)と降り注ぐ陽の光を歓んでいるようだった。
少し遠くでは、花園の向こうに、これからイーゼルを立てようかとしている、イレールの姿が見えた。さっきはありがとうイレール・・・そう思いながらも、「結局ね、何も言えなかったんだ・・・」そう伝えて、少し話しがしたくもあった。
「彼も、随分と絵の腕前をあげたのですよ。いずれ、フーリオ様とアルト様の肖像画をお願いしようとも考えているのです」
ソロレスさんは、後手に手を組んで、ゆっくりと石畳の上を歩きながら、私へそう微笑みかけた。ソロレスさんが微笑むなんて珍しい・・・と、ふと、宮殿の窓へ目を遣った時だった。窓辺に、アルト皇子の姿が見えた。
「あ!・・・」
声にならない声をあげた私の目に映ったアルト皇子の瞳は、何やら憂いに満ちている様子だった。おいたわしいばかりで、私はいてもたってもいられない気持ちに駆られた。いや、「おいたわしい」なんて他人行儀なものではない。それはただの見せかけの気持ちで、私の本当の気持ちは揺らめき、心はざわざわと騒いだ。
そして、ソロレスさんと並んで歩いて、にこやかに笑みを浮かべていたまま窓を見上げた自分を皇子に見られてしまった事を思い、また、下唇を噛みしめてしまった。
・・・皇子の質問に、質問の形で答えた私は、皇子の前から逃げるように去った・・・。
その事が、大きな後悔の波となって、繰り返し、私の心に寄せては返していた。もちろん、そのことを、ソロレスさんは知る由(よし)もなかったと思う。アルト皇子は、教育係とはいえ、ソロレスさんに何があったか、話してはいないだろう。
気もそぞろな私の隣りで、ソロレスさんは、宮廷の部屋という部屋に飾られている、代々の王族の絵と、その作者である宮廷画家について、話しを続けてくれていた。
「イレール、今日は油絵のようですね」
「ソロレスさん、ご機嫌よう。遠くからお二人がいらっしゃるのを拝見していましたよ。ええ、そうなんです。もう油絵は長いのですが、なかなか思っているような色合いを出せないものですから」
イレールは、優しい笑みを口元へ浮かべてそう答えると、さっき会ったばかりなのに、それを全く忘れてしまっている人であるかのように、私へも「こんにちは」と声をかけてくれた。そして、「ちょっといいかな」と、何を思いついたのか、こんな提案をもちかけて来
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