地中海の夏の暑さはアジアとはまるで違う。飛行機のタラップから降りると、攻撃的な太陽の光が容赦なく降り注いできた。
空気は乾燥して遮るものもなく、直接的にまぶしい。いや、痛い。
手をかざして空を見上げる。どこまでも青空が広がっていた。
彼女は今でも写真を撮っているんだろうか。そのフレームで、この透き通った青も切り取っているのだろうか。
カメラで顔が隠れたままこちらを覗き込む少女に、たまりかねて路地裏から出て行こうとしたことがあった。
「あっ…」
その時は思わず足を止めた。残念そうな、落胆の表情がありありと思い浮かぶ声色に引き留められた。
「じろじろ見るようなものでもないだろ」
そう言い捨てれば、不満そうな顔を隠しもせずに、それでもしぶしぶとカメラを直していた。
もう、カメラのシャッター音も思い出せない。少しずつ、あの日の思い出も白くかすみがかっていくのだろう。
柔らかな絨毯に靴音が吸収され、我に返った。
呼吸音さえ吸い取られそうな、静かなホールに立っていた。
「写真展は右手奥です」と入口にいた案内人がほほ笑む。
行く気などなかったはずだった。もう忘れられているだろうと思っていたのだ。当の自分があの日々を忘れかけているから。
受付を通り過ぎてすぐに大判の写真が目に飛び込んできた。無邪気に遊びまわる動物たちが映っているそれは、パンフレットの一番目立つところに掲載されていたので覚えている。この古典の目玉らしい。
壁一面にかけられた作品をざっと見渡す。
ふと、見覚えのあるものが視界の端をかすめた。白い壁の隅にあった一枚。
目の前に、あの時の路地裏があった。
「もうさっさと帰れよ」
薄暗く見通しのきかないイタリアの路地裏。こんな場所を女一人で歩く危険性がわかっていない。
「うー……じゃあ、写真撮らないから、ちょっとだけじっとしてて」
少し動揺したのは、彼女の行動が一瞬理解できなかったからだった。
親指と人差し指を直角に広げ。両手で長方形を作り出す。
「何してるんだ?」
「んー。ほら、カメラで撮る構図をさがすのにね? こうやってフレームの中にどう納まるか、試したりするんだよ」
「やっぱり撮る気だろ」
「しないよ! ……ただ、せめて、覚えていたいだけだよ。掌くんの笑った顔、あんまり見られないし」
「笑ってない」
そんな筈ない。
「ううん。今ちょっと笑ってるよ」
真顔で言い返す彼女が、確かに少し可笑しく見えた。
「ほら、ちょっと笑みが深くなった。なんなら一枚撮ってみよっか……って、今はダメなんだっけ。でも、やっぱり一枚くらい……うーん」
そこまでむきになるようなことか、と問おうとして、別にとられてもいいかと思い始めている自分に気づいた。
途端、彼女の言葉も聞かずに、逃げ出していた。
まだ名残惜しそうにしている彼女に、これ以上一緒にいると流されてしまいそうだった。
あの、路地裏の記憶。まだあるかどうかも分からないあの路地裏。
そうだ、こんな会話をしたんだった。こんな感情を、持っていたのだった。
こんなに、彼女を意識していたのだった……。
時間が、あの時に巻き戻るような気がした。
「掌くん!」
記憶の中の彼女の声。いや違う。写真で声は残せないはず。
振り返れば記憶よりやや大人びた彼女。
彼女が。
胸の中に飛び込んでくる!
「……よう」
自分の声がやけに遠くから聞こえる。ああ、イタリアに慣れ親しんだせいなのか奥ゆかしい日本人であるはずの彼女のスキンシップは激しくなっている気がした。
「掌くん、掌くんなんだね。ずっと、ずっと会いたかった」
彼女の写真を見て、彼女の声を聴いて、この胸に彼女を感じて。
なぜ無性にこの場所に来たくなったのか、思い出した。
「俺も、ずっと会いたかったんだ」
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