権力色の皮、ひとつ

彼女が案内されたカフェはきらびやかな表通りの一角にあった。そこはにぎやかな往来と扉一枚で隔たれ、ひっそりともの静かな空間に沈んでいた。硝子の向こうに見える外の明るさはまるで異世界のようだ。ウェイターたちは影のようにするすると動き、客でさえ誰の邪魔もせず、それぞれの完璧な世界をつくりあげていた。干渉することもされることもない、彼らはオブジェのように存在していた。ひそやかな話し声はまるで音楽で、耳を撫ぜては通り過ぎていく。
店内を見渡して、彼女は陶酔のため息をついた。そうしてすぐに後悔した。自分があまりに不釣合いだったからだ。そこはこんな子どもが足を踏み入れていいところではなかった。いますぐにでも逃げ出してしまいたい。しかし、そんな彼女の気など知らずに、シーンバインは店の奥へと足を進めていく。置いていかれてはますます心細くなるだけだ。彼女は預けられた写真集をぎゅっと抱きしめて、彼の後にぴったりとくっついていった。
いちばん奥にあるテーブルで、シーンバインは音も立てずに椅子を引いた。どうぞと手で指し示し、そこに座るよう促す。彼女は怯えを顔に出さないよう気にしながら腰掛けた。それを見届けると、彼も向かい側の席に座った。それから慣れた手つきでメニューを広げ、彼女に向ける。彼女はメニューを見たが、視線が空すべりするだけでなにも頭に入ってこない。しまいに、小さく「コーヒー」とだけ言った。無意識のうちに声を潜めてしまっていた。
「この店はケーキもおいしいのですよ」
そう勧められても、彼女はつんと首を振った。シーンバインはその様子を見て口の端で笑った。結局、コーヒーをふたつだけ注文した。
コーヒーはとてもいい香りがして、口に含むとめまいがしそうなほどだった。おいしかった。しかし、促されて写真集を開くと、コーヒーのことも、異世界のような店のことも、向かいに座る男のことも、すべて遠いところへ行ってしまった。

シーンバインはコーヒーに口をつけた。視線の先の少女は写真集に釘付けになって、彼を見もしない。同じ場所にいるはずなのに、世界はまったく遮断されていた。本来、彼はこのカフェのそういうところが気に入っていた。外のものに煩わされなくていい、内部だけで完結する世界がここにはある。だから、一人になりたいときにはここを訪れた。また、写真集に集中したい彼女にもうってつけの場所だった。だがいまは、それが少々味気ないようにも思える。声をかけてみてもよかった。だが、それをしてはこの場所を選んだ意味がなくなってしまう。彼は押し黙って、彼女を眺めた。
彼女はため息が出そうなくらいうっとりと写真集に見入っている。赤子を抱くようなやさしさで両手に抱え、1ページ1ページを大切に指先でつまみあげてめくる。このまま機械人形のように、延々とそれを繰り返すように思えた。
それを眺めている間、彼の世界はひとつの完成をたたえていた。だが、それはいともたやすく崩された。
「シーンバインじゃないか」
能天気な声を挙げたのは、取引先の中年男だった。このカフェで、よくそんなふうに人の世界へ割り込んでこられるものだ。シーンバインは苛立ちを感じた。だが、そこで感情のままにあしらっていいものではない。頭を商売に切り替えてにこやかに対応する。数分間、意味のない言葉を交わして男は帰っていった。
「ゴマスリと二枚舌しかカードのない能無しめ」
シーンバインは男の後姿を睨みつけて吐き捨てるように呟き、前を向いた。すると、ちょうど彼女と目があった。彼はすぐに笑顔をつくる。
「これは、お恥ずかしいところをお見せしてしまいました」
彼女は写真集を閉じて、不満そうな視線を彼に送っていた。ご機嫌を損ねてしまいましたか、と彼がなだめようとするのも聞いていないようだ。彼女はためらいがちに尋ねた。
「あなたはいつもそうやって、本心を隠しているのですか」
彼女があまりにもまっすぐに見つめてくるので、シーンバインはふと目をそらしてしまった。そうして、相槌を打つ。
「ええ、商売ですから」
あくまでもおだやかに、にこやかに彼は返事をする。しかし彼女はぎゅっと顔を歪ませてうつむいた。そしてぽつりと呟いた。
「あなたは、寂しい人です」
哀れみをたっぷりと含んだその言葉はシーンバインの頭の中で弾けて、じんわりと爪先までめぐっていった。そのうちに彼女はその脇をすり抜けて、立ち去ってしまった。商談どころか、写真集の感想すら聞くことができなかった。
机の上には写真集と、コーヒーカップが2つ残された。同じく取り残された彼はそれらをぼんやりと眺めるしかなかった。そうして彼は一人の世界へ沈む。
10/04/07 19:38更新 / 浅羽
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