「フィー」
少し低めの、落ち着いた静かなトーン。もう聴き慣れた、穏やかな声音は鼓膜に優しく響く。決して声は老けているわけではない。若い青年の、外見に相応した声だ。
実年齢の方は計測不可能だが、見た目だけなら二十…四ぐらいだろう。
「フィー」
自分を呼ぶ声。その呼ぶ声の主の姿を思い浮かべながら、つらつらとそんな事を思っていた。
「フィー」
「何よあの肌は。何の手入れもしてないくせに、あの綺麗なきめ細かいパールの肌。こっちが一体どれだけ手入れをしてこの肌を何とか維持していると思っているのよ」
再度名前を呼ばれても、今のフィー…フィラーレの耳には心地よい音としてしか届いていない。名前を呼ばれても、どこかBGMの代わりにしている。羨望の眼差しを、脳裏に浮かべた相手に向けている。少し…憎らしい視線も含めて。
「フィー」
「ああもう、煩いなぁ。今忙しいのよ」
現実として名前を呼ばれていることに気づかないのか、気づいていてもそれどころではなく空言なのか。しっしと犬を追い払うかのように手を払う。
「……私への悪口で、ですか?」
「そうそう、キアの………ってキア!?」
名前ではなく言葉をかけられたフィーは、はっとそこで思考の渦から現実へ引き戻された。そして、自分を優しく見つめるキア……マルコキアスの姿を認識し、驚きと焦りと羞恥で大きく相手の愛称を叫んだ。
「お帰りなさい、フィー。私事の思考からお戻りになりましたか?」
「……ただいま。キア」
フィーは気まずそうに顔を俯けながら、ぽそっと言う。
「そろそろ夕食のお時間ですよ? お店の方を閉めないで大丈夫ですか?」
「え? あ、あら、もうそんな時間? 教えてくれてありがとう、ミル。じゃあお店の方、閉めましょうか」
ついさっきまで八つ当たりともとれる一人ごとを言われていたにも関わらず、キアは礼儀正しくいつもと変わらぬ口調と態度でフィーに接し、フィーが店を閉める手伝いをしている。
と、そこへ、店の中へと一陣の風が舞い込んだ。
「きゃぁあっ!」
ぶわっと僅かな隙間から、強い風が舞い込み、フィーの長い黒髪を大きく揺らした。
「――危ない危ない。香水が倒れて割れる所だった……」
ガタガタっと軽く棚の上で揺れただけで、香水は何とか倒れることも、落ちて割れることもなかった。
「大丈夫ですか!? フィー!!」
フィーの悲鳴を聞きつけて、店の奥に荷物を運んでいたキアが慌てて飛び出してきた。
「ええ、なんとか大丈夫よ。さっ、夕食にしましょうか」
「本当に、本当に大丈夫ですか? よく見せて下さい」
キアは顔を青くしながらも丁寧な手つきでフィーの顔や腕を診ていく。
「……大丈夫なようですね」
「だからそう言ったじゃない」
相変わらずのキアの過保護っぷりに、フィーは少し呆れながら言う。
「貴女の大丈夫は、中々信用できませんからね」
「――どういう意味よ、それは」
「ご自分の過去に起こしてきたことを、どうぞ振り返って下さい」
「……」
フィーはキアのその言葉にぐうの音も出ないようで、黙りこんでしまう。自分が過去にしてきた数々の無茶で無謀な試みの出来事が脳裏をよぎる。
「では私は料理のほうをしますので、フィーはセットの方をお願いします」
「……そろそろ私にも手伝わせてくれてもいいんじゃない?」
上目遣いにそうおねだりしてみるも、キアは一向に取り合わない。
「もう少ししたら、お願いいたします」
さらっとむかつくほど完璧な笑みでそう、押し通されてしまう。
「もう少しって、いつよ。ずっとそれなんだから」
ぶーっと頬を膨らませ抗議しても、全く取り合ってくれない。
「フィーに怪我などさせるわけには参りませんから」
「キアの過保護」
今日もフィーは厨房に立つことはできず、大人しくスプーンなどのセットをテーブルに用意するだけで料理は全てキア任せ。小さいころからそれは変わらない。師匠がいた頃も、家事全般はキアの仕事だった。まぁ師匠もなぜかゆで卵を作ろうとして、爆発を起こしては家を半壊させる勢いだったし、仕方ないといえばその通りなのだが。
(別に私はそこまで酷くないんだから、ちょっとぐらい……)
ちなみにフィーの料理の腕前は、爆発こそしないものの、全てが謎の物体へと成してしまうのだ。炭と言うか、残骸と言うか、ダークマターのような……。
そして料理が出来上がり、キアが手際よくテーブルの上に並べて行く。
「本日はトマトと根菜の冷菜にホワイトスープのリゾット、それから果肉入りのリンゴジュースです。一応一口大のライ麦パンもご用意してあります」
「ありがとう、キア! ふふふ、流石キアね。自称世界一の料理の腕、と豪語するだけのことはあるわ〜」
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