好きな人

「リリー、とりあえず落ち着いてください」

 言って、キアはわたしを椅子に座らせると、マグカップいっぱいに温かいレモネードを持ってきた。そうして、そのマグカップをわたしに持たせると、ひざかけを持ってきて、わたしを包み込むようにしてかけてくれた。
 なんだかとても温かくて、わたしはまた泣きそうになっていた。

「さあ、何があったんですか。洗いざらい話してもらいますよ」

「特に…何もない」

「何もなかったら、貴方が泣くことも無いでしょう?」

 ため息をつき、キアは目をそらすわたしの隣に座った。
 キアの顔を仰ぎ見る。アーモンド形の瞳が、優しげに揺れていた。

「キア、わたしも何が何だかわからないの」

「だから泣かないでください」

 キアは困ったように眉尻を下げると、ハンカチを差し出した。ピンと隅までアイロンの利いたそれを受け取る。しかし、それで涙をぬぐう間もなく、視界がにじんでいく。

「ふぇえええええ……」

 ひし、とキアにしがみつく。前にわたしが上げた香水にまじって、キア本人のにおいがした。ええい、服で拭いちゃえ。

「あああ、ちょっ、抱きつかないでください、あーもう仕方ないですね」

 なぜか一瞬慌てたキアは、わたしがキアの服で顔を拭く前に、わたしの手からハンカチをもぎ取り、幼子をあやすようにして頬をぬぐってくれた。
 ポンポン、と頭をなでられる。なんとなく、見たことのない母の顔が思い浮かんだ。

「ゆっくりでいいです。ちゃんと、話してくれますか?」

 優しい声音に誘われるまま、わたしはぽつぽつと話しだした。
 公園のいつものベンチにはクロセルがいなかったこと。
 木陰から聞こえてきた喧嘩。
 それを立ち聞きした内容。
 ―――クロセルに好きな人がいること。
 支離滅裂な内容のそれを、キアはずっと最後まで、黙って静かに聞いてくれた。

「そうでしたか…。大変でしたね」

 ふわりと微笑み、言う。不意打ちのような優しい言葉に、わたしはもう一度泣きそうになった。

「キア、どうしよう。プレゼント落しちゃったの。どこに落したのかも分からないし…。それに、クロセルに何も言わないで帰ってきちゃった」

「大丈夫です。プレゼントの居場所は、私がうすうす勘付いている場所でしょう。クロセルに至っては放っておいても解決します」

「そうかな……」

 わたしは、すっかり冷たくなったレモネードのマグカップを、両手で包みこんだ。
 もやもやとした不安。それにまじって、不思議に疼く甘い胸の痛み。これはいったいなんなんだろう?
 それに、クロセルにつきまとっている女のひと。あの人はいったいなんなんだろう。多分、ストーカーだと思うんだけど…。
 分からないことだらけだ。
 一瞬、脳裏にフラッシュバックしたクロセルの微笑んだ横顔に、わたしは胸が疼くのを感じた。

「リリー、もう時間も遅いですし、今日はお休みください。時には休息も必要ですよ」

「……うん。そうだね」

 ゆっくり、死んだように眠ってから考えても、遅くはないはずだ。
 そうだ。この胸の痛み、明日アスタロテに聞いてみよう。
 そんなことを思っていると、睡魔が突然襲ってきた。白い靄がかかっていく視界を最後に、わたしの意識は唐突に途切れた。



                ***


「おはよう、アスタロテ」

「あらぁ、リリーちゃん。珍しいわね、病院に来るなんて」

 わたしは朝一番に病院にやってきていた。買い物に出ていることもあるが、大体アスタロテはここにいる。こう見えてちゃんと医者をやっているのだ。
 アスタロテは患者さんのカルテをどこかに持っていくところだったようだ。小脇に薄いファイルを抱えている。
 一緒に街に繰り出すときとは違って、白衣姿のアスタロテはなんだかピシッとして見えた。

「ちょっとアスタロテに診断してもらいたくて」

「診断? どこか悪いの?」

 少し小首を傾げ、アスタロテは診察室の扉を開く。

「今、患者がちょうど途切れたところなの。お茶でも飲みながら診察と行こうじゃない?」

「それって、診察っていうの?」

「ま、いいじゃない。楽しければなんでもいいのよ」

 赤いルージュを引いた唇を釣り上げ、艶然と笑む。なんというか、アスタロテらしいといえば、らしいかもしれない。
 お茶、と言いつつも、アスタロテが出してくれたのはコーヒーだった。いいけどね。コーヒーも好きだし。
 角砂糖を二つ、ミルクもどばどばと入れる。コーヒーは好きだけど、苦いのは苦手なのだ。

「リリーちゃん、どこが悪いって?」

 コーヒーをすすりながら、アスタロテが言った。
 片手はすらすらとカルテを書いている。

「…あのね、胸が痛いの」

「胸?」

 アスタロテは眉をひそめた。
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