終わりと始まりの音。(その3)

〜ヴァラクside〜

 今日もリリーは来ない。…まあ、当たり前だ。
 今考えると、アスタロテはなんて無茶なことを言ったんだろう。
『あきらめなくていい』
 ――――確かに、その言葉は僕を救った。でも、それが真実だとは限らない。あきらめるあきらめない云々の話じゃないんだ。
 気持ちの整理をつけないといけない。アスタロテが何を考えているのか僕にはわからないけど、僕の中でこの恋は一応の終わりを遂げているのだから。
 紅茶を一口啜る。ほのかに香る柑橘系。はらりと、ページのめくる音が響いている。…僕が本を読んでいるわけではない。
 僕は小さくため息をついてから、言った。

「……で、なんでいるの」

「いたら悪い?」

 軽くあしらうように言って、彼女はすらりと長い脚を組みかえた。難しそうな専門書をめくる、赤いマニキュアの指。銀朱の瞳は伏せられて、その専門書の字を追っているのがうかがえる。
 言うまでもない。アスタロテだ。

「……悪くはない、けど…」

「けど?」

「落ち着かない……」

「あらそう。私が美しすぎるのがいけないのね」

「……」

「そこで黙らないでくれる? ただの事実よ」

 いやあの、そういう問題じゃないから。
 確かにアスタロテは美女だけど、なんか……ここの雰囲気に合わなくて、僕は落ち着かない。
 白い石造りのベンチ。対になっている、鉄製の椅子とテーブル(今僕たちがつかっているものだ)。ぐるりと庭園を囲む広葉樹の垣根。ところどころに背の高い木が植わっていて、春になると花を咲かせる。退屈だけれど、のどかで小さな憩いの場だ。
 そこに、このアスタロテ。……紅茶とコーヒーをいっしょくたにしたような違和感がある。真っ白な医務室の中では違和感がないというのだから、本当に不思議だ。
 というか、違和感の塊がここでくつろいでいるのが一番の不思議なんだけど。

「お茶を入れてくれない? 出来ればコーヒーがいいんだけど」

「……」

 精一杯の反抗の視線をアスタロテに向ける。…無駄だった。彼女はちらりとも本から視線を上げない。
 僕は再びため息をついて、仕方なく二つ目のティーカップを取り出した。空になっていた僕のカップと一緒に、なみなみと琥珀色を満たす。

「……これでいい?」

「えぇ、ありがと」

 やはり専門書から目を上げないアスタロテが、上の空という感じでそんなことを言った。…僕はぴきん、とその場に凍りついた。

「………」

 …アスタロテがおかしい。
 え。何、お礼? え、アスタロテが? …きっと幻聴だ。

「何か失礼なことを考えてるでしょう?」

「…気のせい」

 何事もなかったかのように淡々と言い、僕は澄ました顔で紅茶を啜った。
 …明日は雪が降るのかもしれない。まだ冬じゃないけど。

 アスタロテは最近よく来る。なぜか。
 医者の仕事だって忙しいだろうに。アスタロテは美容整形外科が専門だけれど、なんだかんだで総合的に医療は勉強しているわけだから、診察はどんな病気でも駆り出されると言っていた。
 そもそも悪魔が経営している病院なんだから、どんな医療ミスがあっても文句は言えないだろう。ある意味闇医者に近い感じだが、腕がいいから余計に性質が悪い。そして、あそこはここらで一番大きな病院だ。
 …そう考えると、なんてあこぎな商売。

「…やっぱり失礼なこと考えてない?」

「…気にしすぎ」

 変なところで勘がいいのは昔からだ。ぎくってなるからやめてほしい。
 胡乱げな視線を向けられるのをしれっと無視して、僕はテーブルに頬杖をついた。

「あー…コーヒーが飲みたいわ」

「…文句言うなら帰って」

「あんたの紅茶も悪くないんだけれどね」

「……」

 …本当に雪が降るかも。
 やっぱりコーヒーよねぇ、などと呟いているカフェホリックを前に、半ば本気に思った。
 自分が淹れる紅茶に、僕はそれなりの自信を持っている。だけど、褒められたことはそう多くない。そもそもふるまう人が少ないからだ。
 でも。でも、だ。
 アスタロテが『悪くない』なんて言うとは。素直な嬉しさよりも、衝撃と驚愕が大きい。

「変だ……」

「何が?」

 ぱらり、ページをめくりながら、アスタロテが目もあげずに言った。

「……アスタロテ、なんか最近おかしい」

「あら、心外ね。言っておくけど、あんたもけっこう変だったわよ、この間。私よりも自分の心配をしたらどう?」

 ちらりと視線を上げて、アスタロテはにたりと笑う。赤い唇がつりあがって三日月形になった。
 いつもの彼女の表情だ。

「……」

「私のことを気にしているような場合じゃないでしょう。前にも言ったわよね、あんたには押しが足りないって。こんなとこでのんびりお茶してないで、とっととリリーちゃん
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