――初めて、嗅いだ香りは、なんだっただろう。
野原に咲く草花の香りだっただろうか。それとも、森の奥に実る木苺の香りだっただろうか。
昔のことは、あまり、よく覚えてはいないけれど、それでも、おぼろげな記憶の中で、今でも強く印象に残っている“香り”がある。
祖父母から、決して踏み入ってはいけないと、そう言われ続けていた――村はずれの深い森。どうして、言いつけをやぶってまで、そこへ足を踏み入れたのかは、覚えていない。だけど、そこであった出来事のことだけは、今でも鮮明に思い出せる。
森の中、ふいに、ふわりと鼻をくすぐった甘い香り――花の香りでも、果実の香りでもない、“不思議な香り”だった。
“香り”に誘われるように、森の奥へと足を踏み入れた私が辿りついたのは、まるで、おとぎ話に出てきそうな小さな庭だった。きれいに整えられた野バラの茂みを越えた向こうには、大きな石のテーブルを中心にして、腰かけるのに、ちょうどよさそうな形の石が、十一。そして、誰もいない庭一面に、残り香のように漂う、“不思議な香り”――
幼かった私は、妖精たちのパーティー会場にでも、迷いこんでしまったのだと思った。“妖精の世界へ迷いこんでしまったら、二度と人間の世界へは帰れない”――そんな、寝物語の一節を思い出して、私は、とたんに、こわくなった。
祖父母が森へ入ってはいけないと言っていたのは、きっと、この森が妖精たちの住処だったからに違いない――そう思いこんだ私は、その場で、わんわんと泣きだした。きっと、もう家に帰れない。大好きな祖父母の顔も、二度と見ることができない。
私は「ごめんなさい」と泣きじゃくりながら、誰にともなく、謝った。森の中の、小さな庭の真ん中で、「もうしないから」と、「だから、おうちに帰して」と、声を限りに泣いていた。
庭を囲う森の木々が、ざわざわと風で揺れ、まるで、話し合っているかのようだった。あの人間はこう言っている、帰してやろうか、どうしようか――
すると、私の前に、大きな黒い犬が現れた。犬は、私をこの庭へと誘った“不思議な香り”と、よく似た匂いをまとっていた。
もしかしたら、怒った妖精が、私を食べてしまおうと、この犬を放ったのかもしれない。私は犬を前にして、ますます、こわくなった。
だけれど、犬は、私を襲ったりなんてしなかった。泣き喚く私の顔に鼻を近づけて、ぺろりと舐めた。ただ、それだけ。
それでも、私を泣きやませるのには、十分だった。
びっくりして、声も出ずにいる私の前で、犬は身体を低くした。私に、「乗れ」と、そう言っているみたいだった。
おずおずと、私が、その背にまたがると、犬は力強く地面を蹴り、駆けだした。振り落とされないように、その身体にしがみつけば、“不思議な香り”が、また、私の鼻をくすぐる。甘くて、だけど、少し刺激的な、香り――どうしてか、その香りは、ひどく、私の眠気を誘った。今から思えば、きっと、疲れていたというのもあるのだと思う。犬の背に揺られるまま、私は、いつしか、眠りに落ちていた。
目が覚めたときには、私は森の外にいて、黒い犬は姿を消してしまっていた。
それ以来、私が、森へ入ったことはない。なぜなら、その森は、街道をつくるために、伐採されてしまったからだ。
でも、私は、あの“不思議な香り”が、どうしても、忘れられなかった。あんなに、こわく思って泣いたのに、どうしてか、あの“不思議な香り”が、恋しかった。
――私が、調香師になったのは、それがきっかけだったのだと思う。
気がついたときには、いつも、あの“不思議な香り”を、風の中にさがすようになっていて――そうして、私は、師匠に出会った。
――あの、“不思議な香り”をまとった、師匠に。
師匠は、調香師だった。だから、私は、あの“不思議な香り”を、師匠が調香しているんだとばかり思っていた。
だけど、意外にも答えは違って、
「――まさか、あれが“悪魔の香り”だったなんてなあ」
ぽつりと、小さく呟くと、私の鼻を、あの“不思議な香り”がくすぐった。
「どうかしましたか?」
「ううん、なんでもないよ――キア」
“香り”の持ち主である悪魔の男――キアに問われて、私は頭を振る。すると、彼は少しだけ首を傾けたものの、「そうですか」と引きさがった。
彼こと、キア――正しくは、マルコキアスというのだけれど、長いから私はキアと呼んでいる――は、師匠に仕えていた悪魔であり、あの“不思議な香り”の持ち主でもある。
――“不思議な香り”の意外な答えというのが、これだ。師匠から、“香り”がしたのは、師匠がその“香り”を調香したからでも、師匠が悪魔だったからでもない――単純に、師匠に仕えていたキアの香りが移っただけだったのだ。
人間に紛れ
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