あの日を忘れない。
◆
「アルト様。教授のご来日時刻が、明日の午前十時に決定いたしました」
部屋に入ってくるなり、ソロレスが、抑揚のない口調で言った。窓の外に広がる夜景を見つめていたアルトは、視線をそのままに静かに答える。
「そうか。わかった」
「明日の朝、八時にこちらを出れば、間に合うでしょう」
「あぁ」
今、アルトは数人の側近達と共に、隣街まで来ていた。来月開かれる予定の式典の準備のためである。こういった場合、第三王子であるアルトが赴くのは少し珍しいことだった。しかし兄達が忙しいのを知っている身である。自分に出来ることを、必死に探しているつもりだった。
「アルト様? どうかなさいましたか?」
窓ガラスに反射するソロレスが、心配そうに声をかけてくる。ハッとそれに気づき、何事もなかったかのようにまた、夜空を見上げた。
「ここから見る夜景は、我が家から見るそれとはまた、違うなと思っていたのだ」建物が少ない分、この街の夜空はかなり遠くまで続くように見えた。
「どちらも、綺麗ですね。ところで……」文を区切ったソロレスを、アルトは振り返った。一つに縛った髪が、背中で揺れる。
「教授に関する資料は、ご覧になりましたか?」強い視線で捕らえられたアルトは、思わず目を逸らしながら答える。
「あぁ……。もちろんだ」
「さようですか。安心しました。では今日はこれで、下がらせていただきます。隣の部屋におりますので、いつでもお呼びください」
頭を下げて、去っていくソロレスを見ていた。ばれているかもしれない。最後の嘘に。
明日、我が宮殿にやってくる予定の人物は、自分の個人教授になることになっていた。そのために、わざわざ遠い国から呼び寄せたのである。今までもそうやって何十人もの教授がやってきては去っていった。何人かは留まり、今でも様々な技術を教えてくれるが、それは少数だ。教授がやめていくたびに、何が理由かを探ろうとしたが、ソロレスに上手い具合にかわされてしまっていた。でもわかっている。きっと、自分のせい。地位と、環境のせいだろうと思っていた。明日来る教授も、きっといつかは去ってしまうんだろう。そう思うと、数週間前にソロレスが用意してくれた資料も読む気になれなかった。どんな男か知らないが、会うのも少々気が滅入った。そっと窓際から離れ、ベッドに向かう。電気を消して眠らなかったのは、そうすればずっと、夜のままな気がしたからだった。
無情にも時は等しく過ぎる。馬車で宮殿に帰る道中、アルトは馬車の外を、ぼんやりと見ていた。ソロレスは、教授を迎えに行かなくてはならなくなったようで、先に戻ってしまった。宮殿の上部が見える、とある交差点に差し掛かったときだった。突然、大きな音と、馬の鳴き声が響いた。音のする方向、数メートル先を見ると、一人の若い女性が馬車の前で蹲っている。興奮した馬に、今にも踏み潰されそうでアルトは心配になる。引き止める側近を振りきって馬車から降りると、罵声が聞こえた。どうやらその女性は、突然馬車の前に飛び出してきたらしく、もう少しで事故になるところだったようだ。馬の手綱を握りながら、顔を赤くした男が叫ぶ。御者のようだ。
「いきなり飛び出してくるなんて、一体、なにを考えている」
その声に、相手の女性はゆっくりと立ち上がった。白いスカートは泥で汚れている。胸に何かを抱いていた。長く茶色い髪は乱れている。顔を一振りすると、隠れていた瞳が姿を現した。大きく、御者を睨むように見つめるその視線に、御者だけでなくアルトも心が震えた。こんなに距離が離れているのに。
「飛び出したのは、確かに、わたしがいけないと思います」凛とした声が響いた。「でも、あなただって、スピード出しすぎだわ」
「な、なんだと……。この馬車が誰のものか、わかっていて、言っているのか?」
今にも喧嘩になりそうだ、とアルトが思った瞬間だった。別の声が、御者と女性の間に降る。
「もうやめなよ。馬車を出して」その声に、御者は背筋をピンとさせる。どうやら馬車の中の人物のようだ。窓は閉まっているので、中は見えないが、声の主が誰だかわかって、アルトは少しほっとした。
「ごめんね? 悪気はないんだ」
主人が女性に声をかけている間に、御者はまた、定位置に戻った。数秒で、馬車は発車する。
アルトも、側近に腕を引かれ、馬車に戻ろうとした。最後に何故かもう一度その女性が見たくなって振り向くと、彼女は道路脇にいた男の子に、抱いていた何かを渡していた。どうやらぬいぐるみのようで、子供は顔をほころばせていた。それを見た女性も笑顔になった。身を挺して馬車の前に飛び出したのには、理由があったようだ。
午前十時三十
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