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こいしていいですか? 
今日から私、―藍沢ハル― は、個人教授をすることになった


その相手は、 ―アルト皇子―


私になんか務まるのかが不安であるが、一応、人に教えることには自信がある。


お相手様は私とは住む世界も違う御方



私は教育をする身


決して間違いなど起こしてはいけない―…

<10/12/11 22:01 nana> 編集


ソロレスさんに託されていた皇子教育は、今日が、最後だった。

私は、十二分に自分の役割を果たせたのかと訊かれたなら、自分は、研究者であり学者であり、また、教授として、その本分は尽くさせていただきました、とは言える。とはいえ、一介の庶民である私に、皇子をさしおいて、高い自己評価などできません、としか答えようがない・・・そうとも思っていた。

もし、これをカリエンさんが聞いたなら、

「皇子の家庭教師たる教授が、なんと弱気な発言を。仮にも皇子を教育した者ならば、己を知っておくべきでありましょう?高名な学者が、皇子の家庭教師ではないと世に知れたら、それこそ、王族の名誉に傷がつくというもの。アルト皇子を貶(おとし)める結果にもなりかねないことを、まさか、教授とあろう方がお忘れになるはずはございますまい」などと言うだろう。

確かに、外国に来ているからといって、学会から忘れ去られるわけにはいかないと思ってこれまでやってきた。学者として、研究者として、何よりも、一国の皇子の家庭教師である身として、結果を残そうと、私は懸命に努力してきたつもりだ。

私にとってアルト皇子は、もう、どこへ出ても、皇子として立派に振る舞えるお方に成長したと、胸をはって自慢できる教え子でもある。

アルト皇子の実像を知れば、カリエンさんもいやみすら言えないだろうし、ヴォルクや、イングリフさん達も守ってくれるだろう。そう確信できた。

だから、今日が、もう、最後なのだと申し上げたのだけれども・・・。

それから。

アルト皇子の手がける研究。その着眼点は、もう私がいなくても、この先十分、皇子自身の手で進めて行ける域に達していた。アルト皇子は、勤勉で研究熱心でもある。これも、私がアルト皇子の元を去っても大丈夫だと思える、理由の一つだった。

アルト皇子の研究は、この国にとって、必要不可欠になってくる政(まつりごと)になるだろう。

真実の愛を追い求めているリオ様、いや、フーリオ第二皇子の、占いによる国政をも凌駕するものとなる、そう感じていた。

静かに本を閉じると、私は、

「それでは・・・」

そう言って最敬礼をして席を立とうとした。その時だった。

「待て。これは余の命令だ。先生は、まだ、私の元を離れてはならない」

アルト皇子は毅然とした態度と、深い哀しみの眼差しで、私にこう言うのだった。

「・・・では、アルト皇子。皇子は賢明な方です。ですから、その理由を私に教えて下さいませんでしょうか?」

私は膝の上に手を重ね、まっすぐにアルト皇子の瞳を見つめた。ざわざわと胸騒ぎのする自分の心に違和感を覚えながらも、平静を装いながら。

「余が答える前に、先生に、先に答えて欲しい。先生は、余の事をどう思っておるのか?」

「それは・・・アルト皇子はこの先、この国の、思慮深い、民に親しまれる王となられる方です・・・」

これは、ソロレスさんも、私もそうあって欲しいと望んでいる事だ。けれども、皇子の質問に、私はきちんと答えていない、というのは、わかっていた。

とはいえ、「あまりにも身分が違いすぎるのです」と答えるには、早急だとも思えたし、率直でありすぎるとも思えた。

そこまで考えて、私は自分にはっとした。

わかっていた?一体何を?そして、何が、早急なのだろう?何が、率直すぎるのだろう?何故、私は、咄嗟に、「あまりにも身分が違いすぎるのです」と思ったのだろう?

私は、動揺を悟れまいと、いずまいをただした。そして、イーヴがこの事を知ったなら、私をどう導いてくれるだろう・・・と考えていた。

え?何故、イーヴが?私は、軽い目眩(めまい)に襲われた。

その時、アルト皇子はゆっくりと席を立ち上がると、束ねていた髪をほどいた。

はらりとその髪が皇子の肩を覆った時、アルト皇子は、一人の若い青年の姿になっていた。

「!!皇子!例え親しい貴族の御曹司とはいえ、レルム様の真似など、なさってはなりま」

そう言い終わらないうちに、皇子は微笑を浮かべると、よく響く、透き通った静かな声で私にこう言った。

「そう。先生は、レルムに、思慮分別の足りない者は大人ではない、そう言われた。今、先生の目の前に居る余は、まだ、思慮分別が足りない者なのか。確かに、レルムに比べ、余の人生は短い・・・」

「皇子それは・・・大人であるかどうかということが・・・皇子と私にとって、問題なのでは・・・ありません・・・」

アルト皇子は、あまりにも美しかった。透き通った静かな声がまた響いた。

「もう一度たずねる。余は、思慮分別の足りない者なのか?そうでないのか?」

黙って唇をかみしめている私に向かって、アルト皇子は同じように、少しの沈黙を置いた。

「・・・先生の質問に、余はまだ、答えていない」

私は息を飲んだ。皇子、その先を口にしては、なりません!と、思わず叫びそうになった。けれども、それは私の早合点かもしれない。

そう。私の早合点かもしれないのだ・・・。

アルト皇子は、知らぬ間にうつむいてしまった私のそばに来ると、そっと私の肩に手を置いて、一つ、溜め息をついた。
<11/07/04 17:45 梨緒> 編集

そしてアルト皇子が、口を開こうとしたその時―
咄嗟に私はそれを遮っていた。

「先ほどの質問にお答えします。・・・皇子に思慮分別があるとは思えません。私にそうお尋ねになること自体・・・そうではありませんか?」

「それは・・・」

皇子が絶句する。

私はずるい。

これは逃げ口上なんだ。

皇子のまっすぐな問いに、質問に質問で返したりして。

「・・・失礼します」

それ以上、この緊張した空間にいるのが耐えられなくなって、逃げるように皇子の部屋を後にした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(・・・どこ?)

いつもの場所に、イーヴの姿を探す。

なぜイーヴなんだろう?
会って、何を話すつもりなんだろう?

混乱した頭で、歩き回っていると、後ろから優しく声をかけられた。

「どうしたの、ハル?・・・そんな怖い顔をして」

振り返ると、常と変らぬイレールの笑顔があった。

ふっと体から力が抜ける。

「あ、イレール・・・ね、イーヴがどこにいるか知らない?」

「ああ、今日は楽譜を見に行っているはずだよ」

その言葉に、安堵とも失望ともつかぬ感情が広がる。

そんな私の様子に気がついた、イレールに「大丈夫?」と心配そうに見つめれる。

「もしよかったら、相談にのるよ。・・・何もできないかもしれないけれど、話を聞くことくらいはできる」

その言葉に、すがるような気持ちになった。

「・・・思慮分別ってどういうことだろうね?・・・慎重に考えて行動する・・・気持ちを抑えるのが大人じゃないのかな」

「場合によらないかな?・・・一般的な意味ならそれで正解だと思うよ。でも、もしそれが恋なのだとしたら・・・」

その言葉に、思わず息が止まった。

恋・・・この気持ちは、恋なのだろうか?
では、皇子の気持ちは?

私が遮った、その先の言葉は、早合点かもしれないと思った言葉は・・・
逃げずに、聞くべきだったのかもしれない。

それに、イーヴに対する、この気持ちはなんなのだろう。

「ねえ、ハル、思慮分別のある恋なんて考えられるかい?」

「それは・・・でも、そうしなければならない時だって・・・」

「やれやれ、学者さんっていうのは、そうやって理屈で感情をすべてねじ伏せるものなのかな?」

その言葉は衝撃だった。
今まで、そんな風に考えたこともなかった。

驚く私に、優しく笑いかけて、イレールが続ける。

「あのね、恋というのは、病にとても似ていると思うんだ」

「・・・病?」

「そう。この世で最も美しい病だよ。・・・誰かへの想いが溢れて、どうしていいかわからなくて、他の何も考えられなくなる」

芸術家のイレールらしい言葉だった。

そして、私の心の欠けていた所に、まるでパズルのピースのように収まった。

「ハル・・・君は、どうしたいの?」


・・・私・・・・私が、想っているのは・・・恋しているのは―
<10/11/04 13:45 sacro> 編集
‥‥‥―そう、ただひとり。

初めから決まっていたはずの気持ちに、私は再度向き合う。
さっきまで押し殺していたはずの想いが、心の中に溢れる。
ピースの収まった所から温かい気持ちが零れて、零れて‥‥‥とても、苦しくなる。
私、アルト皇子を好きでいてもいいのかな、この気持ちを持ったままで良いのかな。

「気持ちは決まった?」

そんな私の感情を表情から読み取ったのか、ふっと微笑むイレールを、私はじっと見つめた。
そして口にした言葉はとても堅苦しく、私が学者であることの証明のようにも思えた。

「いくら恋が思慮分別のないものだとしても、私と彼とでは‥‥‥身分が違いすぎるもの。」

そう、もともとは他国の一介の学者である私が、皇子に対して恋心を抱くなんて、
いくらなんでも、許されるわけが無いと思った。
皇子の様子を思い返すと、もしかしたら皇子も私のことを、好きなのかなとは思う。
でも、やっぱり勢いであんなことを言った手前、もうそんな自信は無いし‥‥‥

「それも含めて思慮分別がないのが、恋だと僕は思うけどな‥‥ってハル?」

「ごめんなさいイレール、色々考えてたら、なんだかグルグルしてきたかも‥‥‥」

国へ帰ると決めてから、もうずっと悩んだり、思い出したり、
自分の意思とは反対のことを、一番言いたくない人に言ってしまったり。
悩み疲れで頭痛を覚えた私は、ふらりと近くにあったベンチに座った。

「う〜恋の病って初めて罹ったけど、厄介なものね‥‥‥あれ?」

「これって‥‥‥」

庭園の中に風に乗って、私とイレールの耳に自然と届いた。
イーヴに相談する時いつも弾いてくれた、ゆっくりで、綺麗な旋律のピアノの音。
辺りを見回しながら宮廷を見上げれば、窓の開いたイーヴの部屋から確かに聞こえる。
遠くのほうで庭の手入れをしていたシュイエも、手を止めてその曲に聞き入っていた。
‥‥‥イーヴは、やさしい。
きっとイーヴでなければ、こんなにも温かくて優しい曲は作れないし、
ましてやそれを演奏することなんて、絶対に出来ないと思う。

「‥‥‥イレール、私、決めたわ。」

「ん?」

「伝えるだけ、伝えてみることにする。皇子に、私の気持ちを。」

「‥‥‥そっか、頑張って。」

「えぇ、ありがとう。」

さっきまでの疲れが嘘のように、体が軽くて、立ち上がった私は少し驚いた。
言葉少なに、いつも私の話を聞いてくれてありがとう。
こんな時でも、私の背中を押してくれてありがとう。

「イーヴも!ありがとう!」

窓の向こうの演奏者に向けて、私は精一杯の感謝を告げた。



ハルが皇子に気持ちを伝えてくると行ってしまってから、イレールはイーヴの部屋を訪れた。
ピアノを弾いていた手を休めたイーヴは、ハルが無事にその気持ちに気付いたことを聞いて、
どこかホッとした面持ちで窓の、外を眺めた。

「よかったの?ハルにイーヴの気持ち伝えなくて。」

「‥‥‥いい。好きな人が幸せになる方がいいし。」

「たまにだけど、イーヴを尊敬したくなるよ。」

困ったような笑みを浮かべながら、イレールは空を見上げた。
イーヴもそれに倣って見上げた空は、綺麗に青く晴れ渡っていた。



イレールたちにお礼を言って、思い立ったが吉日の学者精神で動いている私は、
返事はどうあれ、ただこの気持ちを伝えたい一心で、アルト皇子の部屋の前まで来ていた。
さっきのこと怒ってるだろうなと、一瞬、ノックしかけた手を迷わせた私の目の前で、

‥‥‥部屋の扉が、開いた。
<10/11/10 09:50 ミケ> 編集
一瞬、心臓の鼓動が止まるかと思った私の前に姿を現したのは、ソロレスさんだった。


「おや、これはハル殿。皇子に何か急ぎの用事でもおありですか?」


「いえ、あの、その・・・ソロレスさん、今、皇子は、お時間、ございますか?」


ソロレスさんは、ふと後ろを振り返ると、音をたてないように、そっと扉を閉めた。


「いえ、皇子は若干、お疲れのご様子でした。なので、お休みになられるよう申し上げたところです」


「そうですか・・・」


出鼻をくじかれるとはこのことだ、と思った私は、それまでの勢いはどこへやらで、下唇を軽く噛みしめた。早鐘を打ったような鼓動は、少しずつ、いつもの平静さを取り戻しつつあった。


「何か、皇子にご用件でしたら、私が承(うけたまわ)りますが・・・」


いつもなら、毅然(きぜん)とした態度のソロレスさんが、何やら思案顔だった。そして、扉の向こうには聞こえないようにと気遣っているのかな?とも思えるような風で、私にそう声をかけてくれた。けれども、まさか、アルト皇子に伝えようと思った言葉を、ここでソロレスさんに告げるなんて、出来るはずもなかった。


「あ・いえ、えっと・・・じ、自分から皇子へ直接お話ししたい事がございまして、ですから、皇子のご都合の良い時があれば、また、伺いますので・・・」


なんだかしどろもどろになっている己に心の中で苦笑しながら、私は、体の前で揃えていた両手の指で、ドレスをくしゅっと握りしめた。そして、軽く会釈をしてその場を去ろうと両手で、改めて、ドレスの端をつまみ直した時だった。


「ハル殿も、日頃の学問や研究や訓練で、お疲れでしょうから・・・」


ソロレスさんに、昼下がりの庭園を一緒に歩きませんかとの、お誘いを受けたのだ。少し気の抜けた私でもあったし、特に断るような理由もなかったし・・・何といっても陽が高いのだし、ソロレスさんと一緒なら、エグザも心配しないだろう・・・。エグザの用意してくれる、ティータイムまでには、少し時間もあった。いい気分転換になるしね!そう思った私は、


「喜んでご一緒させて頂きます」


ソロレスさんに倣って、扉の向こうへ声が響かないよう、そっと、そう答えた。


シェイエの手入れする宮廷の庭園は、とりどりの花が咲いていて、どの緑も、磨かれたように生き生きとしていた。飛び交う蝶さえもが、燦々(さんさん)と降り注ぐ陽の光を歓んでいるようだった。

少し遠くでは、花園の向こうに、これからイーゼルを立てようかとしている、イレールの姿が見えた。さっきはありがとうイレール・・・そう思いながらも、「結局ね、何も言えなかったんだ・・・」そう伝えて、少し話しがしたくもあった。


「彼も、随分と絵の腕前をあげたのですよ。いずれ、フーリオ様とアルト様の肖像画をお願いしようとも考えているのです」


ソロレスさんは、後手に手を組んで、ゆっくりと石畳の上を歩きながら、私へそう微笑みかけた。ソロレスさんが微笑むなんて珍しい・・・と、ふと、宮殿の窓へ目を遣った時だった。窓辺に、アルト皇子の姿が見えた。


「あ!・・・」


声にならない声をあげた私の目に映ったアルト皇子の瞳は、何やら憂いに満ちている様子だった。おいたわしいばかりで、私はいてもたってもいられない気持ちに駆られた。いや、「おいたわしい」なんて他人行儀なものではない。それはただの見せかけの気持ちで、私の本当の気持ちは揺らめき、心はざわざわと騒いだ。

そして、ソロレスさんと並んで歩いて、にこやかに笑みを浮かべていたまま窓を見上げた自分を皇子に見られてしまった事を思い、また、下唇を噛みしめてしまった。

・・・皇子の質問に、質問の形で答えた私は、皇子の前から逃げるように去った・・・。

その事が、大きな後悔の波となって、繰り返し、私の心に寄せては返していた。もちろん、そのことを、ソロレスさんは知る由(よし)もなかったと思う。アルト皇子は、教育係とはいえ、ソロレスさんに何があったか、話してはいないだろう。

気もそぞろな私の隣りで、ソロレスさんは、宮廷の部屋という部屋に飾られている、代々の王族の絵と、その作者である宮廷画家について、話しを続けてくれていた。


「イレール、今日は油絵のようですね」


「ソロレスさん、ご機嫌よう。遠くからお二人がいらっしゃるのを拝見していましたよ。ええ、そうなんです。もう油絵は長いのですが、なかなか思っているような色合いを出せないものですから」


イレールは、優しい笑みを口元へ浮かべてそう答えると、さっき会ったばかりなのに、それを全く忘れてしまっている人であるかのように、私へも「こんにちは」と声をかけてくれた。そして、「ちょっといいかな」と、何を思いついたのか、こんな提案をもちかけて来た。


「あの花園を描こうかと思っていたのだけれども、人の姿があったなら美しいだろうなと考えていてね。でも、モデルになって下さりそうなご夫人方が、生憎、誰もいらっしゃらなくて。ハルに時間があるようだったら、ちょっと、花園の前に、横向きに立ってもらいたいんだ。手を前に揃えた格好で、立ってくれるだけでいいんだ。イメージだけで、ね、いいんだ。それでもいいなら、モデルになってくれないかな」


ええ、私が?この服装で・・・と私はふっと自分の胸に手をあてた。皇子の家庭教師の時間には、エグザにも見てもらって、それなりに気遣い、いずまいをただす私だった。けれども、それでも、宮廷ですれ違うきらびやかなご夫人方と比べると、誇れるものは、若さだけしかないようにも感じていた。

カリエンさんにさえ、時に、「もう少し・・・」といやみを言われるような質素なドレス姿の私は、花園の美しさを台無しにしてしまいはしないか、そう心配にもなってしまった。それでも、イレールは、イメージが欲しい、のだから、「ま・いっか」などと、持ち前のいつもの開き直りの早さで、それにしてもちょっと照れくさいかも、という気持ちを隠しながら、


「エグザを待たせてしまうと、心配をかけてしまうから、少しだけ、なら、喜んで」


(さっきのお礼もしたいしね・・・)そう思って答えた。そして、そう答えつつも、視線は、一緒に庭園を散策していたソロレスさんの顔を伺っていた。さぞ、お忙しい毎日なのだろうと思われるソロレスさんだったけれども、気のせいか、なんだか少し嬉しそうな声音(こわね)で、


「ハル殿、私の事は、お気遣いなくいらっしゃって結構です。今日の公務は、皇子がお休みになっておられる間、私も少し休みを頂こうと思っていたところですから」


「では、お言葉に甘えて、少しだけ・・・。イレール、やってみる!・・・む・・・これでいい?」


私は早足で花園の前に歩み行き、横向きに立つと、イレールのあれこれとした細かい注文に応えて、背筋をしゃんと伸ばし、おろした両手を前にして、掌(てのひら)を揃えて重ねた。イメージだから・・・と思いながらも、ふと、どういう表情をしたらいいのだろう・・・と思って、イレールに声をかけようとした時だった。

ソロレスさんは、イレールの隣りに立って、カンバスを指さしながら、何やら楽しそうに話しをしている。ソロレスさんって生真面目な人なのだな、と、つね日頃そう感じていた私には、それは、陽のもとで見る、彼の意外な表情だった。舞踊のレッスンの時だって、あんな表情は見たことがない・・・。

イレールもまた、あれこれ絵の具をパレットに準備しながら、片手に構えたそれにもう片方の手に握った筆で色を作りながら、優しげなまなざしで、カンバスとこちらとを、ちらちら伺いながら、何やら、ソロレスさんの質問に答えているようだった。


「もし、お時間があって、ハル殿の肖像画が出来るようであれば、一つ頂きたいものですね」


ふと、ソロレスさんの声が私の耳に届いた時、私は、家庭教師の時間に使っているアルト皇子の部屋の、とりどりの絵を思い出した。皇子と私とでは、違いすぎる・・・何が・・・何が?・・・。またこの考えが頭をよぎった。

答えは至極簡単だ。

皇子付きの家庭教師としてこの国の人々から尊敬の念を集める立場に居る教授の私だとしても、それでも私は、異国の一介の学者で、一介の研究者で・・・。皇子に向かって、私は大人ですと言えたとしても、まだまだ宮廷の貴婦人方には、青二才と揶揄されても可笑しくはない身分にしか過ぎなかった。

とはいえもちろん、学会で評価され続けていけば、こうして皇子の家庭教師という大役を仰せつかる事も有り得るというのは事実で、その点では、自分を恥じる事も無いじゃない・・・などとも思い巡らしていた。そう・・・皇子の家庭教師、という身分じゃないか。宮廷でのパーティでは、臨席する皇子のすぐ後ろに座を設けてもらえる身であり、そういう点では、貴族方々とも一線を画している、王族ゆかりの人間ではないか・・・。

そんなこんな事を考え込んでしまって、少し視線が落ちていたのだろう。つい先ほど、私にアドヴァイスをくれたばかりのイレールだったから、遠くからでも、皇子と、ではなく、その教育係のソロレスさんと歩いている私が、ソロレスさんの話に、実のところ、少し上の空だった事を、察していたのかもしれない。


「ハル、少し顎(あご)をあげてもらっていいかな?」


(そっか・・・「病」はね、理路整然と説明のつくものじゃ、ないんだよ)、まるでそう言っているかのように、私を気遣うような優しさのこもったイレールの、注文の声がした。





(ハル、君の、皇子を想う、その瞳と、その姿を描いてもみたいと、ふと、そう思ったんだよ)イレールは心の中でつぶやくと、目を細めて、筆をカンバスに走らせた。(でも・・・出来上がったこの絵をイーヴに贈る事が出来たなら、彼は、表情一つ変えないかもしれないけれど、それでも、きっと喜んでくれるだろうな・・・。新しい愛のメロディが、一つ、この絵から生まれるかもしれない・・・)





一方で、ソロレスが、(もしこの絵を頂けるのであれば、私は何処へ飾るのだろう・・・私の自室に?・・・いや・・・・いやしくも、皇子の家庭教師であられるハル殿の絵をそのように個人的な扱いを私めがするのは、宜しい事ではない・・・ましてや皇子の手前・・・)という自問自答を繰り返しているとは、ハルも、イレールも予想だにしなかったに違いない。





アルト皇子はというと・・・。もちろん、何も知らないままだった。ソロレスと並んで歩く、緑の庭園で見かけた若くて美しい異国の教授である先生を・・・いや、一人の女性を想い、ベッドに横になったまま、深い沈黙の中に沈んでいた。(思慮分別・・・か・・・)瞳を閉じてそう思いを巡らせながら。





遠くからは、うららかな陽気に窓が開け放たれているのか、イーヴの演奏するピアノ音色が、時折思い出したように吹く風にのって、途切れ途切れに聞こえ、花の香りとあいまって、園に立つ三人を包んでいた。

その時、がさっと茂みの下を何かが動いた。と、思ったら、姿を現したのはシェイエだった。


「あっ、これは、失礼致しましたっ!」


シェイエは、土で埃まみれになった膝に、大小、様々な剪定鋏(せんていばさみ)のかかったベルトへ農薬の入った木箱をひっかけて抱えたまま、三人の宮廷の人間が、揃いも揃って、黙って佇んでいる様子に驚いたようだった。

だからか、慌ててその場を去ろうとした。

自分のような者は宮殿に出入りするような身ではない、と、いつしかシェイエの言った言葉を思い出して、また、気づかないうちに、私の視線は、綺麗に刈り込まれた緑の芝の上に出来た、自分の影の上に落ちてしまっていた。ああ、少し陽が傾いたようだ・・・。エグザがそろそろ、お茶を運んで来てくれる時間になる。


「ハル、少し顎をあげて」


イレールの柔らかな声は、イーヴのラルゴのピアノ曲に雰囲気が似ている。私は振り向く事も、返事をする事もなく、黙って顎をあげた。イレールの優しさは、いつもそうだけれども、多くを語らずして、心に染みこんで来る。

その時、視野の端で、ソロレスさんが、シェイエに一歩近づくのを感じた。


「ああ、丁度良い。シェイエ、少し頼み事があるのだが」


ソロレスさんはそう言うと、農薬の入った箱をガラガラといわせながら、慌てて踵(きびす)を返したシェイエを呼び止めた。


「シェイエ、もし良かったら・・・」
<11/07/04 17:46 梨緒> 編集

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