任務遂行?
イングリフ様に命令されて、何も考えずにマリアンヌ殿の屋敷まで来てしまったが……。
これからどうしろって言うんだ?
ここに来るまでに人型になってしまっていて、毛がない分、夜風がとても冷たかった……。
やっぱり人型でいるのってイヤかもしれない。
体力落ちるし、鼻は利かないし、聴力も衰えるし、寒いし。
そんなことを思いながら屋敷の玄関前でうずくまる。
俺はいったい何がしたいんだ?
忍び込むのか?
この屋敷に?
そして……。
イングリフ様が書いた例のページを思い出してしまった。
無理だ……。
俺は親衛隊員だ!
王家の客人を守るのは、親衛隊の大切な任務なんだぞ!
マリアンヌ殿は我が国第三王子アルト様の個人教授なんだ!
何より優先させて守らなければならない人なのに、マリアンヌ殿を暴漢から守るならまだしも、なんで俺が……。
つーか、なんで人型になってるんだ、俺?
獣人の危機で、イングリフ様の命令で、それで来たんだぞ。
なのに、なんで人型……。
自己嫌悪に陥りそうだ……。
帰りたい……。
早く自分の部屋のベッドで休みたい……。
それが叶わないと言うのなら、何もかも忘れて、どこか遠くに行ってしまいたい……。
何もかも忘れて、マリアンヌ殿を忘れてひとりで?
こぼれるような笑顔。
おバカながらも、彼女の周囲にあふれる安らぎ。
そんなの、大したことじゃない。
忘れたとしても、マリアンヌ殿が来る前の自分に戻るだけだ。
でも……。
俺にできるのか……?
マリアンヌ殿を忘れるだなんて…………。
イングリフ様には「やってこい!」と言われたけど、他に方法はないのか?
要は獣人の秘密がばれなければいいんだろう?
そんなことを思っていると、背後で人の気配を感じた。
人型だったから気付けなかった。
人型でいるとろくなことにならない。
やっぱり獣の方がいいぞ、絶対にいいぞ!
そして気配の方向に振り返った。
そこには不思議そうな顔をしたマリアンヌ殿がいた。
「マリアンヌ殿……」
「こんばんは。今日も見回り?」
「え?あ、ああ、そうだ……」
見回りでこんなところにうずくまってるわけないだろう……。
仕方がないから立ち上がった。
「ま、また散歩か?」
「うん。そうなんだけど、珍しいね。いつも見回りの時は獣なのに」
おかしいと思われたのか?
どうしよう……。
「たまたまだ、たまたま」
「たまたま人型になったから、夜の見回りに来たの?」
マリアンヌ殿は首を傾げて言った。
「ああ、うん。そうだ……」
そういうことにしておこう。
「イングリフ様のようにとはいかなくても、人型でも獣の時と変わらず行動できるように訓練しないといけない」
ウソは言ってないぞ……。
それは俺が目指しているところでもある。
「コントロールできそうなの?」
心配そうな顔でマリアンヌ殿は言った。
「いや、まだそこまでは……」
「たまたま人型になったから、ついでに訓練ってこと?」
「そういうわけではないが、結果的にはそうなってしまったのかな……?」
でも、マリアンヌ殿がこんな近くに来るまで気付けなかった。
訓練なんてできてないじゃないか……。
「やっぱ、次の論文は『獣人の姿のコンロトールについての考察』でも書こうかな」
「次も書くのか?」
これ以上、獣人の秘密がばれるのは勘弁してくれと思った。
「もちろん」
晴れやかな顔でマリアンヌ殿は言った。
「さっきヴォルクに論文を見てもらって、ヴォルクの話を聞いて、私の論文に足りないところってそこかなって思ったの。それに、姿のコントロールができるできないで作戦の立て方も変わってくると思う」
これが他のことに関してだったら、俺はマリアンヌ殿の前向きさに感心していただろう。
でも、論文を発表して我が国に危害を加えようとしている者たちに作戦を知られてしまったら元も子もない……。
けれどそれを聞いてハッとした。
論文の発表をやめてもらえばいいんじゃないか?
そうすれば獣人の秘密を守れる。
「論文発表というのは、そんなに大事なものなのか?」
聞いてみた。
ただのマリアンヌ殿の趣味とかだったら止めてもらえばいいんだ。
「外国にいるから、論文発表しないとみんなに忘れられちゃうもの」
いつになく物思いに更けたような顔でマリアンヌ殿が言った。
「書かなくてもすごい人はたくさんいるんだけど、私はすごくないし」
「そんなことはない。マリアンヌ殿は、素晴らしい学者だと思うぞ」
そうだ、だから論文など書かなくていいぞ。
「ホント?ウソでも嬉しい」
明るい顔でマリアンヌ殿は言った。
「ウソではない。あの論文を読んで、俺はそう思った」
普段はあんなに奇妙なことばっかりしてるのに、論文はきちんとしていた。
「それは論文を読んだからそう思ってくれたんでしょ。やっぱり、論文は書かないといけないのよ。それに、たまに立ち止って文章を書くと、新しい発見みたいなものもあるから」
「そうなのか……」
やっぱムリか……。
「でも、好きで書いてるわけじゃないのよ。きちんとしたのを書こうと思えば徹夜なんてザラだし、なんでこんなことしなきゃいけないの?って思うことだってあるわ」
マリアンヌ殿は、いつになく真面目で、何か信念のようなものが見られた。
そんな思いで書いた論文を発表しないでくれなんて言えない……。
やっぱり他に方法がないのか?
イングリフ様の言うとおりにするしかないのか?
というか、それでこの状態が打開できるのかがわからない!
「ただヴォルクを観察しながら書いた今回の論文は、書いてて楽しかった」
そう言って、マリアンヌ殿は愛らしく笑った。
「それに、ヴォルクのためにもなると思うの」
「俺の?」
「姿のコントロールができないって言ってたでしょ。でも、条件とか状態とかをハンパなく細かく重箱の隅をつつくように厳密に厳格にとにかくひたすら調べていけば、コントロールの仕方がわかるようになるかもしれない。そういうのは、私、得意だもの」
マリアンヌ殿は優しい顔で微笑んだ。
途中で目の色が変わっていたのは、気にならないくらいに優しい笑顔だった。
というか、気にしてはいけないと思った。
「少しでもヴォルクの訓練の助けになればって思ったの」
マリアンヌ殿は、今までの凶行を忘れてしまいそうな程の、まるで女神のような微笑みを浮かべてそう言った。
そんな……。
マリアンヌ殿は俺のために、そんなことを考えてくれていたというのか?
それなのに、俺はなんてことを……。
「マリアンヌ殿」
「なぁに?」
「その論文、書かないでほしい」
「え?」
マリアンヌ殿から笑顔が消えた。
「預かっている論文も、できれば発表しないでもらいたい」
「どうして?」
「マリアンヌ殿にそんな思いをさせてまでコントロールしたいとは思わないし、それに……」
……マリアンヌ殿の表情が、どんどん哀しそうになっていく。
そんな顔、させたいわけじゃないのに……。
「ごめん、迷惑だったのかな?」
マリアンヌ殿はそう言って、泣きそうな顔で笑っていた。
「いや、そういう意味ではない。俺のために、他の獣人に迷惑をかけるわけにはいかないんだ!」
「他の獣人?」
なんて言ったらいいんだ。
俺は、思いっきり窮地に陥っていた。
どうしたら……。
すると、庭木の間からガサガサという音がして、イングリフ様が現れた。
「そのことについて、私が説明しましょう」
涼しげな顔で、イングリフ様は言った。
「イングリフさん?」
「イングリフ様、いつからそこに……」
「ヴォルクがうずくまっていたから、調子でも悪いのか?と心配して見ていたんだ」
ウソだ。
自分で送りこんでおきながら、この人はいったい何を考えているんだ……。
「え、ヴォルク。具合悪かったの?」
「全然元気だ」
イングリフ様がヘンなことさえ言わなければ……。
「この間見せていただいたマリアンヌ殿の論文ですが……」
イングリフ様が話しだしたので、マリアンヌ殿の注意がそれた。
「『軍隊における人間と獣人の有効利用』ですか?」
「そうです。あの論文は、我が親衛隊にとって、危機的状況を招きかねない情報が含まれています」
「あ……。獣人のデータ」
マリアンヌ殿の言葉にイングリフ様はうなずいた。
「獣人は異国にはあまり知られていません。ゆえに、獣人が多く在籍している我が親衛隊は一目置かれているのです。ですが、あの論文が異国に出てしまうと、獣人がどういう存在なのかというのが知られてしまうことになります」
「ごめんなさい。私、そこまで考えが行きませんでした」
マリアンヌ殿は、辛そうな表情でそう言った。
「そんな顔、なさらないでください」
「いえ、私の不注意です。発表はやめます。そして、次の論文も書きません」
もしかしてと思った。
イングリフ様は、マリアンヌ殿にこんな顔をさせたくなかったから、俺にあんなことをしろと言ったのか?
いつも無邪気に笑っているマリアンヌ殿のこんな表情、見ているだけでこっちが辛くなる……。
俺は、命令に従った方がよかったのではないか?
否、それでもっとひどいことになるかもしれないようなことだってあるだろう……?
「そのことですが、私からお願いがあります」
「お願い?」
「はい。こちらに都合がよすぎることなので、マリアンヌ殿がそれはできないと思ったら、断っていただいて結構です」
「どんなことでしょうか?」
「まず、あの論文は、私どもの管理下に置かせていただきたい。あの論文は素晴らしいものです。親衛隊の問題点の改善のために使わせていただきたい」
「もちろん構いません。親衛隊でお役に立てていただければ、私も書いた甲斐があります」
マリアンヌ殿に笑顔が戻り、嬉しそうにそう言った。
「そして、次に……」
イングリフ様はそう言ってしばらく黙りこんだ。
なんか、イングリフ様がとんでもないことを言いそうな気がして嫌な予感がした。
「さきほど聞いてしまったのですが、姿のコントロールの論文」
「はい」
「あれを書いていただきたい」
「え?」
マリアンヌ殿はきょとんとした顔をした。
「ヴォルクの姿のコントロールおよびその他の獣人の姿のコントロールに役立てたいのです」
イングリフ様はにっこりとして言った。
マリアンヌ殿はしばらくぽーっとしていたが、
「いいんですか?やります。やらせてください!」
と、いきなり元気よくそう言った。
「もちろん、その論文も親衛隊の管理下に置かせてもらいますが……」
「そんなの全然オッケーです。ノープロブレムです。私、書きたいです!書かせてください!」
イングリフ様の言葉を食い気味にマリアンヌ殿は言った。
「マリアンヌ殿!」
俺は慌てて言った。
「何?ヴォルク」
キラキラ輝く瞳でマリアンヌ殿は俺を見た。
「マリアンヌ殿はさっき言ってたではないか。みんなに忘れられないために論文発表しているんだと。そんなことをしたら発表などできないんだぞ」
「その論文が書けて、ヴォルクの役に立てるんだったら、私、祖国のみんなに忘れられてもいいよ」
「え……?」
「こんなにやり甲斐のある仕事、他にないよ」
「イングリフさん、ありがとうございます!私、がんばります!」
「そう言っていただけて、こちらも喜ばしい限りです。では、よろしくお願いします」
イングリフ様は笑顔でそう言った。
その笑顔が、俺には悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「任せてください!」
マリアンヌ殿は、元気いっぱいにそう言った。
「それじゃ、これからさっそく取り掛かります。ヴォルク、またね!」
マリアンヌ殿は一秒でも惜しいという感じでそう言って、足取りも軽やかに屋敷に入って行った。
後には俺とイングリフ様が残された。
これからどうしろって言うんだ?
ここに来るまでに人型になってしまっていて、毛がない分、夜風がとても冷たかった……。
やっぱり人型でいるのってイヤかもしれない。
体力落ちるし、鼻は利かないし、聴力も衰えるし、寒いし。
そんなことを思いながら屋敷の玄関前でうずくまる。
俺はいったい何がしたいんだ?
忍び込むのか?
この屋敷に?
そして……。
イングリフ様が書いた例のページを思い出してしまった。
無理だ……。
俺は親衛隊員だ!
王家の客人を守るのは、親衛隊の大切な任務なんだぞ!
マリアンヌ殿は我が国第三王子アルト様の個人教授なんだ!
何より優先させて守らなければならない人なのに、マリアンヌ殿を暴漢から守るならまだしも、なんで俺が……。
つーか、なんで人型になってるんだ、俺?
獣人の危機で、イングリフ様の命令で、それで来たんだぞ。
なのに、なんで人型……。
自己嫌悪に陥りそうだ……。
帰りたい……。
早く自分の部屋のベッドで休みたい……。
それが叶わないと言うのなら、何もかも忘れて、どこか遠くに行ってしまいたい……。
何もかも忘れて、マリアンヌ殿を忘れてひとりで?
こぼれるような笑顔。
おバカながらも、彼女の周囲にあふれる安らぎ。
そんなの、大したことじゃない。
忘れたとしても、マリアンヌ殿が来る前の自分に戻るだけだ。
でも……。
俺にできるのか……?
マリアンヌ殿を忘れるだなんて…………。
イングリフ様には「やってこい!」と言われたけど、他に方法はないのか?
要は獣人の秘密がばれなければいいんだろう?
そんなことを思っていると、背後で人の気配を感じた。
人型だったから気付けなかった。
人型でいるとろくなことにならない。
やっぱり獣の方がいいぞ、絶対にいいぞ!
そして気配の方向に振り返った。
そこには不思議そうな顔をしたマリアンヌ殿がいた。
「マリアンヌ殿……」
「こんばんは。今日も見回り?」
「え?あ、ああ、そうだ……」
見回りでこんなところにうずくまってるわけないだろう……。
仕方がないから立ち上がった。
「ま、また散歩か?」
「うん。そうなんだけど、珍しいね。いつも見回りの時は獣なのに」
おかしいと思われたのか?
どうしよう……。
「たまたまだ、たまたま」
「たまたま人型になったから、夜の見回りに来たの?」
マリアンヌ殿は首を傾げて言った。
「ああ、うん。そうだ……」
そういうことにしておこう。
「イングリフ様のようにとはいかなくても、人型でも獣の時と変わらず行動できるように訓練しないといけない」
ウソは言ってないぞ……。
それは俺が目指しているところでもある。
「コントロールできそうなの?」
心配そうな顔でマリアンヌ殿は言った。
「いや、まだそこまでは……」
「たまたま人型になったから、ついでに訓練ってこと?」
「そういうわけではないが、結果的にはそうなってしまったのかな……?」
でも、マリアンヌ殿がこんな近くに来るまで気付けなかった。
訓練なんてできてないじゃないか……。
「やっぱ、次の論文は『獣人の姿のコンロトールについての考察』でも書こうかな」
「次も書くのか?」
これ以上、獣人の秘密がばれるのは勘弁してくれと思った。
「もちろん」
晴れやかな顔でマリアンヌ殿は言った。
「さっきヴォルクに論文を見てもらって、ヴォルクの話を聞いて、私の論文に足りないところってそこかなって思ったの。それに、姿のコントロールができるできないで作戦の立て方も変わってくると思う」
これが他のことに関してだったら、俺はマリアンヌ殿の前向きさに感心していただろう。
でも、論文を発表して我が国に危害を加えようとしている者たちに作戦を知られてしまったら元も子もない……。
けれどそれを聞いてハッとした。
論文の発表をやめてもらえばいいんじゃないか?
そうすれば獣人の秘密を守れる。
「論文発表というのは、そんなに大事なものなのか?」
聞いてみた。
ただのマリアンヌ殿の趣味とかだったら止めてもらえばいいんだ。
「外国にいるから、論文発表しないとみんなに忘れられちゃうもの」
いつになく物思いに更けたような顔でマリアンヌ殿が言った。
「書かなくてもすごい人はたくさんいるんだけど、私はすごくないし」
「そんなことはない。マリアンヌ殿は、素晴らしい学者だと思うぞ」
そうだ、だから論文など書かなくていいぞ。
「ホント?ウソでも嬉しい」
明るい顔でマリアンヌ殿は言った。
「ウソではない。あの論文を読んで、俺はそう思った」
普段はあんなに奇妙なことばっかりしてるのに、論文はきちんとしていた。
「それは論文を読んだからそう思ってくれたんでしょ。やっぱり、論文は書かないといけないのよ。それに、たまに立ち止って文章を書くと、新しい発見みたいなものもあるから」
「そうなのか……」
やっぱムリか……。
「でも、好きで書いてるわけじゃないのよ。きちんとしたのを書こうと思えば徹夜なんてザラだし、なんでこんなことしなきゃいけないの?って思うことだってあるわ」
マリアンヌ殿は、いつになく真面目で、何か信念のようなものが見られた。
そんな思いで書いた論文を発表しないでくれなんて言えない……。
やっぱり他に方法がないのか?
イングリフ様の言うとおりにするしかないのか?
というか、それでこの状態が打開できるのかがわからない!
「ただヴォルクを観察しながら書いた今回の論文は、書いてて楽しかった」
そう言って、マリアンヌ殿は愛らしく笑った。
「それに、ヴォルクのためにもなると思うの」
「俺の?」
「姿のコントロールができないって言ってたでしょ。でも、条件とか状態とかをハンパなく細かく重箱の隅をつつくように厳密に厳格にとにかくひたすら調べていけば、コントロールの仕方がわかるようになるかもしれない。そういうのは、私、得意だもの」
マリアンヌ殿は優しい顔で微笑んだ。
途中で目の色が変わっていたのは、気にならないくらいに優しい笑顔だった。
というか、気にしてはいけないと思った。
「少しでもヴォルクの訓練の助けになればって思ったの」
マリアンヌ殿は、今までの凶行を忘れてしまいそうな程の、まるで女神のような微笑みを浮かべてそう言った。
そんな……。
マリアンヌ殿は俺のために、そんなことを考えてくれていたというのか?
それなのに、俺はなんてことを……。
「マリアンヌ殿」
「なぁに?」
「その論文、書かないでほしい」
「え?」
マリアンヌ殿から笑顔が消えた。
「預かっている論文も、できれば発表しないでもらいたい」
「どうして?」
「マリアンヌ殿にそんな思いをさせてまでコントロールしたいとは思わないし、それに……」
……マリアンヌ殿の表情が、どんどん哀しそうになっていく。
そんな顔、させたいわけじゃないのに……。
「ごめん、迷惑だったのかな?」
マリアンヌ殿はそう言って、泣きそうな顔で笑っていた。
「いや、そういう意味ではない。俺のために、他の獣人に迷惑をかけるわけにはいかないんだ!」
「他の獣人?」
なんて言ったらいいんだ。
俺は、思いっきり窮地に陥っていた。
どうしたら……。
すると、庭木の間からガサガサという音がして、イングリフ様が現れた。
「そのことについて、私が説明しましょう」
涼しげな顔で、イングリフ様は言った。
「イングリフさん?」
「イングリフ様、いつからそこに……」
「ヴォルクがうずくまっていたから、調子でも悪いのか?と心配して見ていたんだ」
ウソだ。
自分で送りこんでおきながら、この人はいったい何を考えているんだ……。
「え、ヴォルク。具合悪かったの?」
「全然元気だ」
イングリフ様がヘンなことさえ言わなければ……。
「この間見せていただいたマリアンヌ殿の論文ですが……」
イングリフ様が話しだしたので、マリアンヌ殿の注意がそれた。
「『軍隊における人間と獣人の有効利用』ですか?」
「そうです。あの論文は、我が親衛隊にとって、危機的状況を招きかねない情報が含まれています」
「あ……。獣人のデータ」
マリアンヌ殿の言葉にイングリフ様はうなずいた。
「獣人は異国にはあまり知られていません。ゆえに、獣人が多く在籍している我が親衛隊は一目置かれているのです。ですが、あの論文が異国に出てしまうと、獣人がどういう存在なのかというのが知られてしまうことになります」
「ごめんなさい。私、そこまで考えが行きませんでした」
マリアンヌ殿は、辛そうな表情でそう言った。
「そんな顔、なさらないでください」
「いえ、私の不注意です。発表はやめます。そして、次の論文も書きません」
もしかしてと思った。
イングリフ様は、マリアンヌ殿にこんな顔をさせたくなかったから、俺にあんなことをしろと言ったのか?
いつも無邪気に笑っているマリアンヌ殿のこんな表情、見ているだけでこっちが辛くなる……。
俺は、命令に従った方がよかったのではないか?
否、それでもっとひどいことになるかもしれないようなことだってあるだろう……?
「そのことですが、私からお願いがあります」
「お願い?」
「はい。こちらに都合がよすぎることなので、マリアンヌ殿がそれはできないと思ったら、断っていただいて結構です」
「どんなことでしょうか?」
「まず、あの論文は、私どもの管理下に置かせていただきたい。あの論文は素晴らしいものです。親衛隊の問題点の改善のために使わせていただきたい」
「もちろん構いません。親衛隊でお役に立てていただければ、私も書いた甲斐があります」
マリアンヌ殿に笑顔が戻り、嬉しそうにそう言った。
「そして、次に……」
イングリフ様はそう言ってしばらく黙りこんだ。
なんか、イングリフ様がとんでもないことを言いそうな気がして嫌な予感がした。
「さきほど聞いてしまったのですが、姿のコントロールの論文」
「はい」
「あれを書いていただきたい」
「え?」
マリアンヌ殿はきょとんとした顔をした。
「ヴォルクの姿のコントロールおよびその他の獣人の姿のコントロールに役立てたいのです」
イングリフ様はにっこりとして言った。
マリアンヌ殿はしばらくぽーっとしていたが、
「いいんですか?やります。やらせてください!」
と、いきなり元気よくそう言った。
「もちろん、その論文も親衛隊の管理下に置かせてもらいますが……」
「そんなの全然オッケーです。ノープロブレムです。私、書きたいです!書かせてください!」
イングリフ様の言葉を食い気味にマリアンヌ殿は言った。
「マリアンヌ殿!」
俺は慌てて言った。
「何?ヴォルク」
キラキラ輝く瞳でマリアンヌ殿は俺を見た。
「マリアンヌ殿はさっき言ってたではないか。みんなに忘れられないために論文発表しているんだと。そんなことをしたら発表などできないんだぞ」
「その論文が書けて、ヴォルクの役に立てるんだったら、私、祖国のみんなに忘れられてもいいよ」
「え……?」
「こんなにやり甲斐のある仕事、他にないよ」
「イングリフさん、ありがとうございます!私、がんばります!」
「そう言っていただけて、こちらも喜ばしい限りです。では、よろしくお願いします」
イングリフ様は笑顔でそう言った。
その笑顔が、俺には悪魔の微笑みにしか見えなかった。
「任せてください!」
マリアンヌ殿は、元気いっぱいにそう言った。
「それじゃ、これからさっそく取り掛かります。ヴォルク、またね!」
マリアンヌ殿は一秒でも惜しいという感じでそう言って、足取りも軽やかに屋敷に入って行った。
後には俺とイングリフ様が残された。