読切小説
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香水の匂い
この世界で悪魔と関わるなという事は無理な事なのかも知れない
見渡すと そこらじゅうに 実際はいなくとも
いる気さえしてしまう人通り

嫌な影がする どう表現するかは分からないが
確かに区別が出来る 人 と 悪魔


それでも、それが人であろうとも 人波みが行く先が、群れが
悪魔に踊らされているように
そう 悪魔の意思に干渉されているように映る






「…仕事のし過ぎか」



人波を眺めてそう呟いた彼の目は 今日は暗く、けれど透き通ってはいて
何処か遠い所をを見つめていた

通行の多い大通りを人は目を留める事無く
ただ各々が向かっている方へと歩き 通り過ぎて行く





息抜きに とほんの些細な時間の合間に 近くの通りへ藺慶嘩は出て来ていた

溜まっていた書類に浮かぶ 見慣れた、何処か不可思議な点
浮きあがっている奇妙な点、覚えのある名前

それらを目にする度に気分は暗い部屋に閉じ込められているような
何とも言えない苛立ちと倦怠感に苛まれる

その気持ちが何処から来るのかは分かってはいる
気分転換に来た筈の外も 人通りは多く その人、一人ひとりが
見えない糸に繋がれている様にも思えて来た

うんざりだ そんな言葉がぴったりと来る今の気持ちを
口に出すのも億劫なように感じられるのは
何時に無く 空も淀んで灰色の雲に覆われていたからかも知れない


「―あれ、藺だ」

コツ コツ コツ と 石畳を辿る 低いヒールの音
振り返る。 誰が居るのか その声で、判った

「どうしてこんな所にいるの?」

何かの詰まった紙袋を抱えて 彼女がそこにいた
コロリ、と 彼女が紙袋を持ち直すと 紙袋から音がする
それが 硝子の 瓶か何かだと 何となくには想像がついた

「…休憩だ」

「此処で?」

「お前は…?」

不思議そうに背後を眺めて 人通りの多い場所だと確認する彼女の
その言葉に 小さく頷いて尋ねた

それにどうという事も無く 彼女は答えた

「香水の材料を受け取りに…でも、」



今日は 雨が

そう彼女が口にする その時に ざあ、と雨が降り出した

「降るっていってた…って 雨!」


肩口から髪から あちらこちらを 濡らして行く 冷たい雨粒は
突如として 行き交う人々の足を速めた
ざわ と 空気が揺れるようにして 慌ただしい足音に変わる

瞬きをする間もなく水を浴びた状態になる

「藺!傘持って無い!?」

辺りが騒然とした空気に呑まれた中 彼女の声に 呼び戻される
必死に紙袋を覆った手を水が流れたのが見えた



咄嗟にその腕を掴んで駆け出す
人波と同じように 走り出したその足音が
自分も その中の一人なのだと そんな気分にさせる

「持ってる訳ないだろ」

雨の中小さく呟いて 滴が伝う腕を放さないように気をつけながら
ただ夢中で 降りしきる雨の中を突き抜ける







気付けば肩で息をしていた 見上げると細い鉄の看板の文字が目に入る
“   ”
彼女がつけた そう言っていた店の名前だった


ぶら下がっている看板の文字をじっと眺めていると
同じように、もしかしたら それよりも 荒く苦しそうに息をしている
彼女の呼吸が聞こえて来て振り向く

早く走り過ぎたかと 心の中で自分を叱咤する
けれど 彼女は大事に抱えた袋を広げて やがて 苦しそうな顔のまま
それでも笑う


「よか、った 濡れなかった」


そう言って彼女は笑っていた


言葉を呑む、 思わず掴んでいた手に力が入りかけたのに気付き
手を 、腕から放す



「悪かった、思いきり走っていたらしい」

「……はやかったね、でも抱えてると前が見えなくなりそうだったから」

結果的には、助かった とそう言って 疲れて笑う彼女の横顔は
先ほど見た 笑顔が 薄く浮かんでいる

その姿は 濡れ鼠のようだった




得も知れぬ空気と感じた事のある独特な視線を感じ
視線の方を見ると タオルを手にした 姿が目に入る

「キア」

「―お帰りなさいませ」


何時の間にやら店のドアは音も立てずに開いている
此処へ到着した時は閉まっていたのを目にしてはいた

しかし彼女が扉に手を掛けると 古い木の軋むような音がした

「…タオルを」

そう言って差し出されたタオルを彼女は自然に受け取る

「ありがとう」

無言のまま 此方へも差し出されたタオルを目前にして
藺は それを見詰めた



「―俺はもう帰る、又濡れるだろうから構わない」


そう口にした自分を 疎むでも怒るでも無く
彼女の店に居着く悪魔は 只 そう、ただ 此方を見詰めていた

「あ、藺 ちょっと待って」


そう口にして彼女が店の扉の奥に消えて行く
その行き先を マルキアコスは見送っていた

駆けて行った足音と共に彼女が帰って来るのが分かった
何かが微かに光ったとは思っていたが
現れた彼女のその手の中に 瓶が握られていた事で 其れだろうと思う


「これ」

差し出された小瓶は 中で液体が揺れる

「香水か」

「そう、藺のイメージで作ったの貰ってくれる?」



「…お代は」

「いいよプレゼントだし、私が勝手に作った奴だから
 良かったら使って見てよ 気が休まるかもしれないし」

「…」


手にした瓶は小さくて 香りが微かに漂っていた

「分かった」


ポケットに入れ 別れを告げる
またね と 告げて そっと手を振った彼女は店の中へ向かい

其れを目の端に映し 自らも背を向けて歩み出した





相変わらずの雨 既に通りは人の影がまばらになっていた

ふと 仕事に戻る前に 手渡された小瓶をポケットから取り出して
蓋を開いてみると 嗅いだ事の無い 不思議な香りが広がる

香りは包み込むようで 胸が締め付けられる
どうしてそう思ったのか、 少しだけ 泣きたい気分になった
10/06/24 10:27更新 / そわか

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