…………ここにつながれて、どれくらい経ったんだろう。 とても長い時間、ここに閉じ込められていたような気がする。
湿った空気。 薄暗い、石畳の牢獄。 こんな場所が、我が国にあったことすら知らなかった。 それともここは、俺の知らない異国の地なのだろうか?
手と足を鎖につながれ、自分で動けるのは、せいぜい起きるか寝るかの選択ができる程度。 食事を与えられず、雨水らしき水をすすり、もう、起きていられる体力もなく、冷たい石畳の上に、横たわっていた。
助けを呼ぶ気力も残っていない。 いくら叫んでも、誰にも聞こえていないことは、わかっていた。
人の声も、人の匂いも、人がいるらしい反応を、感じることができない。
宮殿からはもちろん、人里からも離れた場所なんだろう。 明りとり程度の窓しかない牢獄から、周囲の様子を知ることができなかった。
俺は、このままここで死ぬのか? 一瞬、そんな思いが脳裏をよぎった。
マリアンヌ殿の笑顔を、もう一度見たい……。 それは、聞き入れられることのない、儚い願いのような気がしてしまった。
なんで、こんなことに…………。
不意に、錆びついた扉の開く音がした。 扉が開いた所で、俺は外に出ることはできない。 そして、それが助けではないということを、俺は知っていた。
「調子はどうかい?」
俺は返事をしなかった。 こんな状態、いいわけないのは一目瞭然だった。 それなのに、どうしてそういうことを聞いてくるのかわからないその恐るべき無神経さに驚愕し、そして、そんな相手には、何を言っても喜ばせるだけだということを知っていたからだ。
「おや、できているじゃないか」 そう言って、イングリフ様……否、イングリフは、俺の手首につながっていた鎖を持ち上げて俺を見た。
「これで、ようやく第一段階かな?」 こんな俺を、イングリフは楽しそうに見ていた。
「……ここから、出せ」 残った力を振り絞り、そう言った。
「ダメだよ。こんな中途半端な状態でやめたら、お前は何も得られないよ」 「誰が……、こんなことをしろと……」
「お前が言ったんだよ。姿のコントロールができるようになりたいから、訓練してくれと」 「こんなの、訓練じゃない……」
「これがてっとり早いのだよ。おかげでお前は自分の意思で人の姿になっているじゃないか」 「俺の……、意思なんかじゃない……」
「そんなことないさ。訓練はこういうことの積み重ねだ。ごほうびに、食事をさせてあげるよ」 イングリフはそう言うと、俺を地面に下ろした。
手首の痛みがなくなって一息ついていると、抱き上げられ、口の中に液体が流れこんできた。 ドロリとした、味のない液体状のものだった。 イングリフが口うつしで食べさせていた。
何でもいい。 この苦しみから、少しでも逃れられるなら。
むさぼるように、イングリフから受け取る。
「美味しいのかい?それとも、味なんてどうでもいいのかな?」
嬉しそうにイングリフは言って、俺の唇に付いた液体を指先で拭う。 思わずそれを払いのけ、イングリフから離れる。
「なんて獰猛な獣なんだろうね、お前は」 嬉しそうにそう言うと、イングリフは俺をうつ伏せにして抑えつけた。
「やめろ……」 「なに、次の課題だ」
そしてイングリフは俺の背中に乗ってきた。
「離れろ……」 体力がなくなった体で、あのイングリフから逃れることなんて、できなかった。
「言っただろう?これは、訓練なんだ」 耳元で、イングリフが言葉を吐く。
「やめろ……。もう、やめてくれ!」 「獣になったらやめてあげるよ」
イングリフが俺の首筋をなぞる。 「それが、課題」
「できない……。俺には……」 「いいよ、それでも」
金属のカチャカチャという音がする。
「もう、嫌なんだ……」 「私はね、キミが姿のコントロールができようができまいがどうでもいいんだよ」
足かせが外された。
「ただ、キミがもだえるところが見たいんだよ」
その言葉は、俺を絶望にたたき落とす。
「ほら、早く獣になってごらん。できるものならね」
痛みが、体を突き抜ける。
「イングリフ様、お願いです。もう、やめてください…………」
涙が床に落ちる。 だが、イングリフの執拗な責めは、延々と続けられた。 それこそ、いつまでも終わらないかのように。
その後のことは、何も覚えていなかった……。
◇◇◇◇◇◇◇◇
「………………………………イングリフ様、コレは、何ですか?」 俺は、例によって、論文に添付されていたページをイングリフ様に突き出した。
「おや、どうしてコレをお前が持っているんだ?」 「マリアンヌ殿の部屋にありました……」
「勝手に持ち出したのかい?ダメじゃないか。いくら恋人同士だって、個人のプライバシーは尊重し合わないといけないよ」
よくもそんなことが言えたもんだ…………。
「コレ書いたの、イングリフ様ですよね」 「よくできているだろう。コレを書くのに徹夜してしまったよ」
「コレに出てくる『俺』って、誰ですか?」 「お前、それ、わからないのかい?」
「わかりません」 「お前なんだけど」
わかっていたけど、聞きたくない言葉だった……。
「俺は、イングリフ様にこんなことをされた覚えはありません」 「私だってない」 これだけのことをしておきながら、表情も変えずにイングリフ様は言った。
「どうしてこんなものを作ったんですか?!」 「マリアンヌ殿が獣人のコントロールについて、何かヒントになりそうな書物はないかと聞いてきたので、ないから書いて渡しますと言って書いたものがコレだ」
「もう少しまともな書き方できなかったんですか?っていうか、コレ、全然事実じゃないでしょう?そんなものマリアンヌ殿に渡したところで、意味ないじゃないですか」
「ふむ。もっともな言い分だな」
…………このクソ上司。
「だが、しかたがないだろう?マリアンヌ殿の研究に役に立つような書物はないのだから」 「それは……、そうですけど……」
獣人についての学術的な研究は、いままでされていなかった。 だから、マリアンヌ殿の研究が、我が国始まって以来の獣人の研究ということになる。
「それに、マリアンヌ殿はお前のために一生懸命研究しているのだぞ。我らが協力しないでどうするのだ?」
その言い分はわからなくもないんだが……。
「でも、コレはちょっとおかしいでしょう?」 「そうか?」 「そうですよ!」
「だが、マリアンヌ殿は喜んでいたぞ」 「え?」
血の気が引いた。
「マリアンヌ殿が喜んでくれて、私も書いた甲斐があった」
それ、本来の目的と違っているだろう?
「マリアンヌ殿は、コレを読んで、何と?」
イングリフ様は、急に暗い表情になった。
「それが、喜んではいたのだが、何か勘違いしてしまったようで、ごめんなさいと、何か微妙な表情でそうつぶやいて、お礼のつもりなのか頭を下げてどこかに行ってしまった」
いったいどんな勘違いをしたんだ!!!
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