「キア。」


名を呼ぶ。
顔はこちらを向いているのに、いつもその瞳に彼女は写らない。


「キア。」


もう一度呼ぶ。
彼女の向こうの何か。何も無いはずの空間。
彼女には、そこから彼の意識を逸らすことすらできない。

『私』という存在の希薄さに、心がつきん、と音を立てる。


「・・・キア。」


声に出したのかどうか、自分でもわからなかった。
そのくらい小さな、掠れた声で彼を呼ぶ。
宙を彷徨う視線は、けれど彼女の元には戻らない。
ふう、と小さくため息をつく。

「・・・出かけてくるから。お店よろしくね。」

それだけ言うと、彼女は立ち上がった。
そのときになって初めてマルコキアスの瞳に光が戻る。

「あ、どちらへ？」

行く先など特に決めてはいなかった。
単に、この場所に今、居たくない。

「うん。ちょっとそこまで。」

そう言って、彼女は微笑んだ。
その微笑がいつもとは違うことに、彼は気づくだろうか。

「はい・・・お気をつけて・・・。」

彼は表情も変えずにそう言うと、また遠い目をする。

また、どこかへ“飛んで”いってしまう。



「・・・キアの馬鹿。」


ぽつりとつぶやくと、彼女は店を後にした。
え？と問い返す声が聞こえた気がしたが、そんなの気のせいだと思うことにした。



なぜなんだろう。どうしてなんだろう。
どうして彼は自分を見てくれないのだろう。

きっとそれは突然消えてしまった師匠とも関係がある気がするのだけれど、それは彼女にはわからないことだった。

悪魔の考えることなんて・・・・。

「わかるわけ、ないじゃない。」







「何だ、またお前かよ。」

どこをどう歩いたのかは覚えていない。
けれど、ピリピリと張り詰めた空気に目を上げれば、そこにサレオスが居た。
恋愛の何かをつかさどるらしいのだけれども、極端に恋愛を嫌う、悪魔。

「ぅ、サレオス・・・。」

会いたくないやつに会ってしまった。
正直いつもあまり会いたくないのだけれど、今日は更に会いたくなかった。
その美しい顔から繰り出される罵詈雑言の数々が今日は深く突き刺さりそうな気がした。
いつもならばそれは彼女にとってどうということでもなかったけれど。

ふん、とサレオスがとても嫌そうな顔をする。

嫌なら声を掛けなきゃいいのに・・・。
思わずため息が漏れる。

「じゃ、そういうことで。」

何か言われる前に退散してしまおう。
引きつった笑顔を浮かべながら踵を返して戻ろうとすると、後ろからサレオスの呟きが聞こえた。

「何なんだよ人間は・・・。わかんねぇな・・・。」

いや、知らないよ。ていうか、私に聞かないで・・・・・。
そう思ったが、彼女は聞こえなかった振りをしてその場を後にする。

いつの間に路地なんかに入り込んでしまっていたのだろう。
この分だと目的地を考え付く前に彼岸にでもたどり着いてしまうかもしれない。

「それは、嬉しくない。うん、すごく嬉しくない・・・。」

彼岸になどたどり着いたらそれこそきっと悪魔に囲まれてしまうだろう。
ただでさえ彼女の日常には悪魔が当たり前のようにのさばっていたのに。

「・・・何で私には、わかっちゃうのかなぁ・・・。」

ため息をつく。
今日は一日中ため息ばかりだ。
自分で思っているよりも実は疲れているのかもしれない。

悪魔は割とその辺にあふれているのだけれど、それがわかる人とわからない人がいるらしい。
見分けがつく人とつかない人、と言ったほうが正しいか。
そして彼女は幸か不幸か前者であり、なぜか避けて通っても悪魔にぶち当たる残念な体質だった。

彼女が引くのか、惹かれるのか・・・。
気がついたら、そばに居た。
そんな感じだった。

「はぁ・・・ため息しか出ない・・・。」

いつもと変わらないはずなのに、どうも気持ちが落ち込んでいた。
マルコキアスに無視されるのも、サレオスが嫌そうなのも、何もかも、いつもどおり。
いつもどおり過ぎてどうでもいいくらいだ。

なのに。

何でこんなに、モヤモヤするんだろう・・・・。


「もうやだ。こういうときは勉強するに限る！」

薄暗くなってきた道を図書館へと向かう。
何もかも忘れて、今日は本に没頭しよう。

たとえどんなに自分の存在が薄っぺらくとも、彼女には『調香師』という夢がある。
香りを扱っているその時だけは、彼女は確かに“存在”できる。


「師匠も、香水を作るのに大切なことは考えることと知識だって言ってたしね・・・。」

本にはたくさんの知識が詰まっている。
そして考えるのが嫌な日だって、本から知識を得ることくらいは、できる。

「別に・・・嫌なわけじゃ、ないけどさ。」

誰に対するでもないが、つい言い訳をしてしまう。

考えること。何かを思うこと。頭を使うこと。
それはきっと心が元気だからできることなのではないかと、彼女は思う。
心に元気が無いときは、頭もうまく働かない。
ほんの些細なことですら悪い方向にしか考えられない。

「お腹がすいてるときと、同じだね。」

ぽつりぽつりと独り言を言いながら、ぷらぷらと腕を振ってゆっくりと歩く。
図書館の向こうに日が傾いていくのが見える。

「・・・キア、心配するかな。」

口に出してみて恐ろしく後悔した。
足を止めて、がっくりと肩を落とす。

ああ、今日は何だかひどく疲れた気がする。

「はぁ。」

またため息が出る。
もういっそ、図書館で勉強をするのすら億劫だった。

『・・・キア。』

目を閉じて心の中でつぶやく。
脳裏に写るマルコキアスはいつもと同じ、遠い目をしていて。
なぜだろう、それだけでひどく悲しくなる。

なぜ、こんなにも悲しくなるのか。
その理由がわからないことが、余計に彼女をモヤモヤさせた。
何で今日に限って・・・？





「はい。」

突然声を掛けられた。気がした。

驚いて彼女が目を上げると、図書館の階段の前にマルコキアスが立っていた。
その双眸には、目を大きく見開いた彼女がしっかりと映っている。

「あの・・・」
「何でここにいるの？？？」

何かを言おうとした彼の言葉にかぶせるように彼女が声を上げる。
一体、いつからそこにいたのだろう。
少し背の高いマルコキアスの後ろで、今まさに、オレンジ色の太陽が図書館の向こうに沈んで行くのが見えた。

「もう遅いので、お迎えに参りました。」

そう言ったマルコキアスはバツが悪そうに少し俯いた。

「お店を見ているように言われていたのに・・・申し訳ありません・・・。」

怒られると思ったのか、マルコキアスはしょんぼりと肩を落とす。
そんなマルコキアスを、彼女はただ呆然と見つめた。

「・・・何で、ここにいるの・・・？」

彼女はもう一度聞いた。
なぜここにいるのか。なぜ、彼女がここに来るとわかったのか。
それも、悪魔の能力だとでもいうのだろうか。

彼女の意図を図りかねたマルコキアスが困ったように首をかしげる。
相変わらず、その瞳には彼女を映したままで。

そうしてしばらく考えた後に、ぽつりと、つぶやいた。

「ここに来れば、会える気がしたのです・・・あなたに・・・。」

「・・・っ！」

首をかしげたまま自分を見つめるマルコキアスに掛ける言葉が見つからなかった。
なぜわかったのかなんて、きっと聞いても無駄なのだろう。
マルコキアスは嘘をつかない。
だからきっと、彼は本当にそんな気がしたのだ。

「ありがと、キア。・・・帰ろうか。」

彼女はそれだけ言うと、先に歩き出した。
極力マルコキアスの顔を見ないように。
彼の瞳に自分の泣きそうな顔が映るなんて、嫌だったから。

「はい・・・！」

後ろでマルコキアスの声がする。
なぜか嬉しそうなのは、きっと気のせいだろう。



少しずつ暗くなっていく通りを、彼女はゆっくりと歩いた。
その少し後ろを、マルコキアスが同じくゆっくりと着いてくる。

着かず、離れず。

手を伸ばせば触れるか触れないか、ぎりぎりの距離。
近くて遠い、いつもと同じ距離。

その縮まることの無い距離を、寂しいと感じるのか、心地よいと感じるのか。
不思議なのは心の在りよう・・・ということか。
もう一度、小さくため息をつく。

「お店・・・どうせ人間のお客さん来ないし、気にしなくていいよ・・・。」

ポツリとつぶやくと、マルコキアスが立ち止まる気配がした。
それでも彼女が歩みを止めずにゆっくりと進んでいると、ふいにそっと手を掴まれた。

振り向くと、マルコキアスが困ったような顔をしていた。
掴んでしまった手をどうしたらいいのかわからない、というような。


そのままで、どれくらいが経ったのだろう。
とても長い時間に思えたけれど、実際にはほんの数秒だったのかもしれない。
困った顔のまま彼女の手を離そうとしないマルコキアスをちらりと見る。
そして掴まれた右手に目を落とし、もう一つ、ため息をついた。


「キア・・・。」


名を呼ぶ。
暗がりでよくは見えないけれど、こちらを向いているのだけはわかる。
視線がどこにあるのかは、彼女にはわからないけれど。

わからないけれど、今の彼女にはやはりどうでもいいことだった。

右手には、確かなぬくもり。
希薄な彼女という存在をつなぎとめる柔らかな楔。大きな手。


――― それでいい。


何がいいのかはわからない。
けれども彼女は、そう思った。

「キア。」

もう一度呼ぶ。
今度ははっきりと。

「遠回りして帰ろうよ。・・・今日は満月だよ。」

空いている左手で空を指差す。
久々の満月が、ゆっくりと顔を出す。

「はい。」

マルコキアスが答える。

月が昇るにつれてあたりが明るくなっていく。
あと少しすれば、マルコキアスの表情も見えるだろう。
その、視線の先も。

それを待たずに彼女は歩き出した。
ゆっくりと、彼も歩き出す。


着かず、離れず。


それでもつないだ手だけは、離さないまま。


「あ、そうだキア。」

ふと、彼女が思い出したように言う。

「何でさっき図書館の前で『はい。』って言ったの？」

彼女の独白。心の声。
確かに彼女はマルコキアスを呼んだけれど、決して声には出していなかった。
誰かと話していた気配も無かったし、あれは何の『はい。』だったのだろう。

「何でって・・・。」

マルコキアスがまた困ったように首をかしげる。
振り向かなくても、彼女には何となくそれがわかった。
そのままゆっくりと歩いていると、後ろで小さなため息が聞こえた。


「あなたが私を呼んだじゃないですか・・・。」


――― 沈黙。



しばらくして、突然クスクスと笑い出した彼女に、マルコキアスは訝しげな顔をした。
なぜ彼女が笑っているのかまったくわからないというように。

「そうだね、そうかもしれない。」

クスクスと笑い続ける彼女に、マルコキアスはまた小さくため息をついた。
困ったような、嬉しいような、そんな不思議な微笑で。



呼んだって、聞かないくせに。


彼女は思う。


見つめたって、気づかないくせに・・・。


「・・・やっぱり、悪魔の方がわけわからないよね。」


ポツリと、彼女がつぶやく。


「そうですか？」


マルコキアスが答える。



「うん。」



――― それでいい。



ゆっくりゆっくり歩いていく。

空には明るい満月が輝く。

もうすぐ店が見えてくる。



今はもう、右手のぬくもり以外、何も気にならなかった。